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プロフィール
コメント数 404
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 55歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

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【製作年 : 2000年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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1.  ニール・ヤング/ハート・オブ・ゴールド ~孤独の旅路~
ニール・ヤングのライブ・ドキュメンタリー映画である。  場所がカントリーの聖地、ナッシュビルのライマン・オーディトリアムということで、ニール・ヤングのカントリー作品を中心にした曲構成となっている。音響が素晴らしく、温かみのある演奏がよく響く。彼にとってはナッシュビルに所縁のある"Harvest"、"Comes a Time"、"Harvest Moon"の3枚の傑作アルバムからの選曲が中心となっているのもいい。(ステージ後半)  本作の監督はジョナサン・デミである。ジョナサン・デミと言えば、彼の出世作、Talking Headsのライブ・ドキュメンタリー映画"Stop Making Sense"が有名である。これは、舞台演出をライブに取り入れた楽しい作品で、演劇的要素あり、アコースティックあり、ダンスあり、ポップアートあり、映像としてもライブ盤としてもエンターテイメント溢れる傑作だった。そもそも"Stop Making Sense"にはライブで盛り上がっているはずの観客が殆ど映らない。ライブ映像というよりも映像作品そのもの、音楽エンターテイメント映像作品である。  本作"Heart of Gold"も観客を一切映すことなく、ステージ上で演奏するニールや共演者たちの所作をひとつひとつ丁寧に映す。その絵がとても綺麗。ニールが歌う表情のアップ。ギターを爪弾く指の動き。ハーモニカを吹く時の口元。共演者たちとの距離感。彼の奥さんでもあるペギー・ヤングを含め、ギタープレイヤーたちが総勢で一列に並ぶ"Comes a Time"と"Four Strong Winds"。まるでスタジオ映像のように、演者たちのひとりひとりをじっくりと映し出す。観ている僕らはライブの観客の一員ではなく、まるでバンドの一員になったような錯覚に陥る。  アットホームなステージ。その中心に孤高として高音の声を響かせるニール・ヤングの立ち姿、その表情。彼は歌う。目をつぶり、そして、遠くを見つめる。彼が見ているもの。ロックの魂。60年代後半から70年代にかけて、人々を虜にし、消えていったロックの魂たち。すっかりold manとなりながらも威光に満ちたニールの表情を通して、「それ」を映し、捉えたことによって、本作は、スコセッシの"The Last Waltz"と並び、音楽ドキュメンタリー/ライブ映画の傑作になったと思う。
[DVD(字幕)] 9点(2012-07-23 08:13:20)(良:1票)
2.  きみに読む物語 《ネタバレ》 
胸がじーんとなった。 ジーナ・ローランズとジェームズ・ガーナーの2人が良かった。そして、もちろん若い2人、レイチェルとライアンも最高にハマっていたね。 ストーリーは最初からミエミエ(あっちの2人がこっちの2人に重なれば、そりゃそうなるよね)なのだけど、それでも感動した。僕って、こういうベタなラブストーリーにめちゃめちゃ弱いのです。  レイチェル・マクアダムスがとにかく可愛かった。特別に美人!って感じではないんだけど、表情が豊かで、素直に感情が迸るところなど、すごく愛嬌があって、思わず抱きしめたくなる感じ。 ライアン・ゴズリングも生真面目で一途な感じがよく出ていた。少し憂いがある目元もいい。彼の言葉、"I want all of you, forever, you and me, every day!"... しびれました。 ジーナ・ローランズ。『グロリア』の彼女もすっかりおばあちゃんになってしまったけど、最後に見せた笑顔がとても可愛くて、救いがあったよ。 そして、ジェームズ・ガーナー。『大脱走』カッコよかったなぁ。あの精悍なアメリカの調達屋がすっかり好々爺になっていて。。。でも、ラストシーンにはとてもグッときた。昔の写真の2人もキマっていたよ。(敢えてこっちの2人の写真にしたところが僕はよかったと思う)
[DVD(字幕)] 9点(2012-07-02 22:36:46)
3.  マイレージ、マイライフ 《ネタバレ》 
これは面白かった。主人公に共感できるところが多くあり、身につまされるというか。。。映画の評価って、そういうところが大きいよね。  主人公の生き方。孤独を愛し、同時に人を愛する。矛盾しているように感じるかもしれないけど、生活という拘束、結婚という制度を否定すれば、それは達成可能である。マイレージ(1000万マイル!)を生き甲斐とする考えは、ある意味で意地のようなもの。確かにアメリカの航空会社のマイレージって有効期限もなく、格付けによる利便性が高いので、それを自らのステータス、生活スタイルの象徴としてしまう心情も分からなくはない。但し、彼自身もそのこと、それが意地にすぎないことは分かっていて、だからこそ、最後にそれをあっさり否定してみせる。  アフリカを舞台にした30年前のレッドフォードとメリル・ストリープの映画を思い出した。人は恋愛によって変わる。恋愛はこれまで貫いてきた彼の「自由」な生活、孤独という名の自己愛と自然愛を脅かし、献身は自己の不安を呼び起こすが、それでも彼、彼女は否応なく惹かれ合う。彼らは、「恋愛」を知っている。故に、それに纏わる喜びや哀しみを繰り返し受け入れられる余地を持っている。いつでも、いつまでも。。。それなのに、何故、結婚しようとする? 人の重荷まで一緒に受け入れる必要がある?   結婚を否定する考えは反社会的、反倫理的で間違っている、という意見は正しい。なぜなら、人は老いる。結婚こそは人を老いの恐怖から救う制度、短い生涯を有効に生きる、人類社会の英知でもあるから。レッドフォードは若くして都合よく人生を終えてしまうけど、本作の主人公の人生は、これからもずっと続く。  現代的な現実としても考えさせられるけど、それ以上に胸にぐっとくるものがあった。それがいいのか、悪いのか、境遇が近いと、感想も書きづらいなぁ。人生万歳。。。
[DVD(字幕)] 9点(2012-07-02 22:34:45)
4.  しあわせの隠れ場所 《ネタバレ》 
邦題以外はとても好感のもてる作品。アメリカ南部、メンフィスの白人富裕層、プロテスタント、共和党員、ライフル協会会員。絵に描いたような保守系白人の金持ち一家に、スポーツは優秀だが、身寄りのないスラム地区の1人の黒人少年が関わる。家族の一員となり、その支えによって、生活の目的を得た黒人少年はアメフトで成功し、多くの優秀な大学からスカウトを受けるまでになる。。。この作品は、実話の映画化であり、それが本作の大きなポイントだと僕は思う。  実話の映画化故に、この物語は、格差の問題をあくまで個人の善意にしか還元せず、アメリカ(特に南部)の社会構造に到達させることはない。実際のところ、この家族のような善意と勇気をもった人々はアメリカにも多くいて、また、貧しくても優秀な黒人少年も多くいるだろう。ただ、その接点がないのである。本作は偶然に偶然が重なって実ったひとつの美談でしかない。しかし、この事実/映画が多くの人々の心にフォローアーとしての小さな意識を植え付ける可能性はある。それが社会構造を変える可能性だってある。(アメリカ的な個人主義に留まる可能性ももちろんある)  アメリカ南部の格差社会の現実は、僕らが思う以上に今も厳しい。格差や差別の問題であれば、ある意味で日本も同じ。僕らだって当事者になり、それを引き受ける立場になるかもしれない。その場合の正義と善意の行方に想いを馳せる、そういう可能性の映画だと考えることができるのではないか。
[DVD(吹替)] 8点(2012-05-16 00:26:52)(良:3票)
5.  人生万歳! 《ネタバレ》 
原題を”Whatever Works”、つまり「何でもあり」と言う。主人公はウディ・アレンを少し精悍にしたような役者ラリー・デヴィッド。これまでのウディ主演の主人公よりも性格は悪い。彼は、ノーベル賞候補にもなった物理学の元教授で頭が良く、上流階級で、知識があって、理論に勝る為、常に人を見下している。故に孤独でもある。  そんな主人公が尺取虫ほどの脳みその(と主人公が呼ぶ)若くて可愛らしい家出娘に一方的に惚れられて、彼女と結婚する。音楽を含めた趣味や生活観が全く合わないながらも、その違いこそが2人の関係を支える、まさに共依存のような間柄となる。お互いを思う気持ちがうまい具合にすれ違うことで2人はうまくいく。だから、彼女が知恵を獲得することで、2人の関係性はバランスが崩れ、最終的に破局するのである。  しかし、映画はそこで終わらない。何故なら「何でもあり」だから。恋愛とはそういうものだ。だからどうした。ウディにとって、人生の中の恋愛という可能性はいつまでも死なない。人生万歳! すごく晴れやかで、筋が通った、いい映画!
[DVD(字幕)] 10点(2012-01-18 00:52:49)
6.  ラブ・アクチュアリー 《ネタバレ》 
クリスマスが近づくと思いだす映画『ラブ・アクチュアリー』。素敵なロマンティック・コメディですね。  冒頭でヒュー・グラントがナレーションで呟く”Love actually is all around.”がタイトルとなっていますが、この場合のLoveは恋愛というよりも、広義の「愛」でしょう。確かにこの映画の群像劇では、いろんな形の「愛」が描かれます。英首相の身分を超えた恋愛であり、幼い恋愛であり、言葉を超えた恋愛であり、肉体を超えた恋愛であり、肉体の恋愛であり、親友の彼女への横恋慕であり、大人のちょっとした火遊びであり、家族愛であり、姉弟愛であり、男同士の友情であり、、、。最後の方もやっぱりLoveなんですよね。ある意味で恋愛という幻想を超えた現実的なLoveです。それもいろんな形としての。  恋への勇気を描いた映画という評価もあるけれど、どちらかと言えば、「愛」という言葉の広がりというか、その大きさと共にミニマルさを感じさせる映画に思えます。ビートルズの”All Need is Love”が挿入歌として有名ですが、僕にはラストに流れるビーチ・ボーイズの”God Only Knows”が心に響きます。「君」は、デブのマネージャーでもあり、幻想の君でもあるのです。その愛に支えられている自分を感じ、それを伝えたくなるのです。  ♪もし君が僕から去るなんて事が起きたら  人生はそれでも続くけど 信じてほしい  この世は何の価値も示さない  生きる事に何の良さがあるんだい?  神のみぞ知る 君がいないと僕がどうなるか♪   The Beach Boys “God Only Knows” 
[DVD(字幕)] 8点(2011-12-18 23:30:34)(良:1票)
7.  バタフライ・エフェクト/劇場公開版 《ネタバレ》 
この映画の最も秀逸な点は、ラストシーンにある。主人公は、彼女と出会わない世界をあえて選択し、その世界が彼女にとっての最も理想的な人生であることを確信する。彼にとっては、彼女を愛するが故の究極の選択である。数年後、彼は、都会の雑踏の中で彼女らしき人物とすれ違う。彼と彼女は、失われた記憶の中にお互いを認め、微かなときめきを覚える。ある種の既視感(デジャブ)が二人を捉える。  このラストシーンは、村上春樹の短編小説『4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』(以下、『100%の女の子』)に似ている。 その後、彼と彼女は再びめぐり逢い、付き合い始めることになるのであろうか? 『100%の女の子』は、結局のところ二人がお互いを認識できずにすれ違い、行き過ぎる場面で終わる。『バタフライ・エフェクト』も同様であろうか。 僕の答えは、『100%の女の子』の二人がその後運命的に出逢う可能性があるのに対し、『バタフライ・エフェクト』の二人にはその可能性がない、である。その違いこそが「宿命」であり、「運命」の由来である。ときめきは失われた記憶から立ち上がり、事実として思い出された瞬間に押し止められてしまうのだ。  「失われた記憶」と「運命」と言えば、思い出す映画がありますよね。そう『エターナル・サンシャイン』! 記憶が失われて、二人は運命的に出会う。  「失われた記憶」こそが「運命」の由来。映画は、その出自を辿る物語。そう考えれば、彼と彼女が出会った時、二人の記憶をよぎる微かな瞬き(第一印象で「ビビビっ」とくるアレですな)、「第一印象で決めました」というのは、実に有意なのだ。失われた記憶の幻影(の可能性)故に二人は惹かれあうのだから。 運命とか宿命とかいう言葉は、科学的に説明不可能な概念である。もしそれが実際的な由来として現実的に有り得るのだとすれば、それは『エターナル・サンシャイン』や『バタフライ・エフェクト』のような物語として構築化され得るのではないだろうか。それが現実的であるかどうかは別にして、そういうアイディアは物語としてすごく有意だし、僕なんかは可能性に満ちた想像力を掻き立てられて、ちょっとドキドキして、そこはかとなく楽しい。  そう思いませんか?
[DVD(字幕)] 8点(2011-11-27 22:21:28)
8.  川の底からこんにちは
主人公の「頑張る」という言葉が妙に切実に響いたのは、「頑張る」とか「頑張ろう」という言葉自体が最近世間で使われなくなったからかもしれない。一億総うつ社会。敢えて「頑張らない」ことや競争しないことが今や美徳となっているから。みんな「ナンバーワンにならなくてもいい、元々特別なオンリーワン」なのだから。 また、他人に「頑張れ」と言わないこと。それは「頑張れ」という言葉の無責任さや無神経さを自覚してのことだというが、裏を返せば、他人の気持ちに深く踏み込めない、責任を持てない関係性そのものの希薄さを表している。  僕自身は、年がら年中、「頑張る」と言い続けているような気がする。そう言って自分を鼓舞しないとやっていけないので、それは「しょうがない」のだ。とにかく頑張って、家族や会社を守る。人は社会で(ちっぽけでも何でも)責任ある立場を得ると、無根拠でも何でも頑張らないとやっていけないのです。とにかく明日も頑張るので、今日は寝る。それは決めたことだから。それはもうしょうがないから。  満島ひかりは相変わらずうまいなぁと思うのだけど、今回の主人公はちょっと共感しづらい点がところどころにあり。そういう違和感も彼女の魅力なのだけどね。
[DVD(邦画)] 8点(2011-10-10 10:12:12)(良:2票)
9.  シャーロック・ホームズ(2009) 《ネタバレ》 
小さい頃、シャーロック・ホームズと言えば、両つば帽子にフロックコート、又はシルクハットにタキシードを身に着け、スマートでパリッとした外見に、常にパイプを咥えている壮年の紳士というようなイメージを持っていた。おそらく、それは小学校の頃によく読んだ『シャーロック・ホームズの冒険』の抄訳版の挿絵や英国のドラマからの影響だと思う。 その後、ホームズの長編モノ『緋色の研究』や『四つの署名』、『バスカヴィル家の犬』を読んでみると、そのイメージが全然違うということに気が付く。まず、先に挙げた小説のホームズは若い。未だ世間に名の知れない自称探偵の若造でしかない。紳士というよりも外見的には少しだらしない研究者然とした感じで、それでいてボクシングの元ランカーなので体格がよく、背が高い。性格的には極端に意地っ張りで、子供っぽく、かなり偏狂的。重度のジャンキーでもある。 実は小説に描写されているホームズとワトソンのイメージでみれば、映画『シャーロック・ホームズ』の主役2人はわりと原作に近いのではないかと思える。難を言えば、ロバート・ダウニー・Jr、ちょっと背が低いことか。。 ホームズの長編モノって実は推理小説というよりも冒険小説、アクション小説と言っていいものだと僕は思う。小説の最大の見せ場は、探偵による推理の披露よりも、手に汗握る犯人追跡劇だったりして、だから、この映画のあり方は何ら間違っていない。  映画で描かれる19世紀末のロンドンの雰囲気がよかった。古き良き時代末期のロンドン。これから20年も経つと車の登場でロンドンはガラッと変わる。その古き良きロンドンを舞台にしたアクションヒーローたるシャーロック・ホームズのスタイリッシュな冒険譚。そういう映画として僕はとても楽しめた。
[映画館(字幕)] 9点(2011-01-17 22:14:27)(良:2票)
10.  善き人のためのソナタ 《ネタバレ》 
彼は何故、監視対象者を幇助するような行動を取ったのか?その答えを同時進行的に辿る、そういう映画なのだと思った。  彼女に恋をしたからだろうか? 最初のきっかけはおそらくそうなのだろう。そして、原題にあるように、彼が自分と違う「他者の人生」に深く感銘してしまったこと。それが実際の理由なのだろう。  監視していた劇作家が恋人の裏切りを知りながら、彼女を許したこと。それは何故なのか。人を許すとはどのようなことなのか?彼はその答えを知りたいと切望した。劇作家が弾く音楽を聴き、その読む本を読み、その佇まいを想像し、彼はその本質に触れたのだと思う。彼は「他者」を発見したのである。そして、彼は二人の他者の人生に実際に触れる。  最後に彼は劇作家の本の謝辞に自分を発見し、それを「私のための本」と言う。それが彼にとって「他者の人生」を「そうありたい自分の人生」と重ねられた瞬間だった。彼の微かに誇らしげな笑顔がとても印象に残った。   ※各自の点数評価のことなので僕にはどうでもいいことですが、邦題でこの映画の内容を判断するのはちょっと可哀そうな気がします。。。
[映画館(字幕)] 9点(2011-01-17 22:13:45)(良:2票)
11.  リンダ リンダ リンダ 《ネタバレ》 
『天然コケッコー』の監督、山下敦弘の「女子高生のバンドやろうぜ」的映画。 ボーカルの女の子「空気人形」のぺ・ドゥナが素晴らしかった。彼女はこのとき24歳。でも女子高生になっちゃうのだからすごいね。  ペ・ドゥナの存在が大きなポイントというのは確か。彼女がいなかったら、この映画は、均質でうす~い物語になってしまっただろう。彼女の異質があってこそ、彼女と彼女たちの微妙な対比が面白い。  ペ・ドゥナが誰もいない夜の出店を歩きながら、「フランクフルトいりませんかー」と叫ぶ。薄暗い体育館の中でひとりだけのバンド紹介。アカペラで歌いだす。これこそ彼女のキャラクターである。すごく伝わるものがあった。じんじんときた。単なる「女子高生のバンドやろうぜ」的映画を超えて、彼女のさざめく孤独感、繋がりを求める切な思いと今の充実感がよく伝わってきた。  最後の最後でブルーハーツの「リンダリンダ」と「終わらない歌」がフルコーラスで歌われる。クライマックスとしては最高だ。すべてを忘れて世界と一体化する瞬間があるとすれば、こういう時なのだろう。シンプルなラストがGood。歌詞が身に染む。胸がキュンとなった。とても懐かしかった。
[DVD(邦画)] 9点(2010-05-13 00:30:19)(良:1票)
12.  ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~ 《ネタバレ》 
これはいけない。前半は『ヴィヨンの妻』、後半は別物。『太宰と妻の物語』と言いたいところだけど、実際の太宰の妻は全く違う境遇だったし、なんと言ったらよいか、ひとつの物語として、その「接ぎ木」は、とても中途半端に思える。  ヴィヨンの妻とは、大谷が泥棒を働いたということを店の主人から聞かされ、その台詞まわしに思わず笑い出してしまう佐知その人なのである。彼女を演じる松たか子がみせた泣き笑い、苦境をもろともしない根拠のない明るさ、小さく噛みしめる充実の表情はとてもよかった。それは一歩間違えば簡単に不幸に潰され、埋もれてしまうような仄かな明るさであり、だからこそ、それを真摯に描いてみせることによって、僕らははっとするような生の本質を感じる。彼女のからりとした明るさと大谷という破天荒な誠実さの対比にこそ、その本質がある。それが太宰治の『ヴィヨンの妻』なのだと僕は思う。  だから、、、途中から、ちょっと違うよなぁと思ってしまう。松たか子と浅野忠信はイメージに合うのだけど、「接ぎ木」以降の物語は、不要な「落ち」としか思えないのである。
[DVD(邦画)] 7点(2010-05-13 00:28:37)
13.  誰も知らない(2004) 《ネタバレ》 
『誰も知らない』は、登場人物達の絶対的などうしようもなさを残酷なまでにリアルに描ききった作品である。親たちは何の悪気もなく、子供を突き放し、結果的に彼らを疎外する。そのどうしようもなさ。その衝撃。そして、子供たちは何の屈託もなく、親たちを赦し、結果的にそういう社会を自明のものと受け入れる。そのどうしようもなさ。その衝撃。  カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』や『日の名残り』の主人公たちを思い出す。彼らは自らの運命を受け入れ、そこから決して逸脱することがない、限定された世界の住人たちである。彼らの独白は、限定された世界から決して外れない、彼らの世界観の中でこその語り、その絶対的な記憶であるが故に、僕らにある種の違和と共に欠落を想起させた。 それが『誰も知らない』の子供たちにも言える。諦念という言葉では当てはまらない現代的な心情、そのどうしようもない底の浅さと生来的な欠落を感じさせる。  しかし、全く救いのない物語の中に、子供たちの生き生きとした姿を感じてしまう(『空気人形』の人形と同じに)、そこで描かれる救いとは一体何だったのだろう。彼らが否応もなく受け入れた世界。それを自明のものとして引き受ける逞しさとアカルさに現代的な救いと希望を感じてしまう。ある種の恐ろしさをセットにして。。。
[DVD(邦画)] 10点(2010-04-03 09:16:44)
14.  いつか読書する日 《ネタバレ》 
気持ちというものは、言葉にして初めて形になる。他者に表明して初めて具現する。そうでない時、それは得体の知れないものとして在る。表情として、仕草として、態度として、それは明白なものでは有り得ない、、、と僕は思う。 田中裕子と岸部一徳は、お互いにお互いを意識する間柄であるが、それは今の日常に踏みとどまるよう気持ち(言葉)を抑えることで成り立っているが故に、彼らの中には、「得体の知れなさ」が、幻想として肥大している。時々、敢えて言葉にしてみることにより、自らの感情を認識しつつ、それはガス抜きされる。いわゆる「恋」である。倦怠さを超えて尋常かつ切実に繰り返されてきた30年間に渡る「恋」のファンタジーである。  唐突であり、また都合のよい展開。それもファンタジーとしての物語である。  30年間思い続け、それが成就するというファンタジー。「恋」を扱った物語として、それは必然の展開なのではないか。  「いつか読書する日」というのは、いつか彼女が買い揃えた文芸小説を心静かに一人読んで過ごす日(は「そのこと」を超えないとやってこないということ)を指し示しているのだと僕は思った。そして、過剰な思いや欲望を意識しつつ、自ら抑圧した長い日々があり、言葉を紡いだ「その日」があり、お互いを心のままに求め合った瞬間があり、それらが想い出に変わる日々、瞬間を永遠のものとして、これからようやく様々な物語を自らに引き入れることができるのであろうことを暗示しているのだと思った。もちろんそれが解釈として妥当なのかどうかは分からないけど、この映画がそういった想像を含め、様々な思いを喚起させることは間違いない。  幾多の社会問題を散りばめながら、その関係性の中でさざめく日常があり、日常を超えて持続した「恋」のファンタジーがある。胸を突く、感動的な映画だった。 
[DVD(邦画)] 9点(2010-03-05 00:40:57)
15.  愛のむきだし 《ネタバレ》 
観てしまった!『愛のむきだし』を!  奥田瑛二の娘 安藤サクラと満島ひかりが評判通りすごかった。なんというか、70年代的なエロを感じたなー。永井豪マンガの実写版みたい。それでもって、話は盛りだくさんなんだけど、全てが確信的に薄い。薄っぺらのペラペラーって感じ。まるで阿部和重の小説みたい。  愛=勃起だなんて。確信的に過ぎるくらいにアカルくて、ポップだ。それって、70年代から80年代にかけての価値観そのもののように思えるけど、それが今、同時代的なのかなぁ?  薄っぺらさの質感、その凄みというものがあるとすれば、それを作品として体現しているのが、実は、阿部和重の小説である。以下は彼の小説に関して以前に書いたレビュー抜粋である。  「冒頭で、昨今頻発する殺人事件の動機は「心の闇」などという問題ではないと述べた。阿部の小説を読んでいると、その認識は実は全く逆で、「心の闇」のなさこそが我々現代を生きる人間の荒んだ心情の由来ではないかと感じてしまう。真空にも物質的な密度があるように、平板さと明るさの中にこそ現代的な「心の闇」が裏返しに潜んでいて、それが瞬間的に漏れ出てくるのではないか。それこそが現代の心情の根源であるのだと。その境界の「薄っぺらさ」がある種の得体の知れなさ=息苦しさとして、僕らの胸に文学的に響いてくるのである」  人間の狂気を僕らの認識の下、無意識の奥深くに湛えられたものとこれまでイメージしていたのではなかったろうか?しかし、狂気は、トランプの裏側に貼り付けられたもの、それをめくれば、そこに現れるもの、簡単に表が裏になり、裏が表になる、そういったものに今成りかわっているのではないだろうか。そのトランプこそは人間であり、まるでトランプ兵の姿として、そこに在るのだとしたら。朝起きたら、自分の体がトランプ兵になっていたとしたら。。  この作品が現代的な得体の知れなさ=息苦しさを描ききっている、、、とは全く思わないけど、最後に主人公が愛に絶望して狂気に落ち込んだ後、愛する人との邂逅により、いとも簡単に正気に戻るのは、そのありえなさ故に示唆的である。だけど、その最大の起因が、「勃起」だというのは、あまりにも牧歌的というか、やっぱり70-80年代のマンガ的な単純さに過ぎる気がするけど。。。 
[DVD(邦画)] 9点(2010-03-05 00:39:24)(良:1票)
16.  アバター(2009)
表現されている以上の世界が設定としてその背景に隠れている、というのは、『機動戦士ガンダム』の「一年戦争」に代表される(戦史としての)メタ物語の典型であり、仮想現実的なキャラクター世界の手法そのものである。『アバター』も同じで、それが多くの人に今熱狂されている「世界観」というものだと思うけど、僕にはそれが模造的であるが故に映像としてもアカル過ぎて、陰影を感じない。全てが計算された「世界観」の一角のみを映像で示してみせる。それが設定としても映像としてもあまりにも「浅い」と感じるのは何故だろう。おそらくそれが自然ではない、人工の模造的映像の限界であり、設定そのものがデータベースからの類型としての演繹に過ぎないからなのだろう。そこに自然という驚きや想像力を超えた迫力が無いというのは、全てが所詮は数値変換の産物に過ぎないということが透けて見えるからなのだろう。 今後、こういったCGを駆使した新しい映像表現はどんどん進化していくに違いない。しかし、それはどうにもアカルすぎるのだ。(僕らのミライと同じで)  「明瞭な色分けは、それこそ仮想世界にのみ可能なのだ。現実は単純ではない。多層的で多面的だ。曖昧で不可分だ。ちょうど今日の天気のように。晴れでもないが雨でもない。曇りかと思えば日が差し込む。この曖昧さは、人の営みの実相でもあるはずだ」-森達也『東京番外地』-  上記は、正常な精神と「精神病」との間の差異についての森達也の言説である。 あえて言えば、『アバター』は精神的に正常にすぎる、そういう映像に思える。だから退屈なのだ。  と、ここまで書いて、僕が『アバター』を退屈だと思うのは、TVゲームを全くやらないからかもしれないと思った。ゲーム空間がこれまでどのように進化してきて、全面CGの『アバター』がどれほど凄いのか、歴史的にも技術的にもいまいちよく分からないのである。あしからず。 
[映画館(字幕)] 7点(2010-03-05 00:37:03)(良:1票)
17.  マイケル・ジャクソン/THIS IS IT
即席で作られたにしては、よく出来ていると思います。画面を躍動するマイケルも既にこの世にはいないことを想うと、その事実だけでこの作品にも意義があると言えるでしょう。彼の叶わなかった夢のステージの断片として、この作品は優れたドキュメンタリーだと思えます。 リハーサルのみの映像ですが、僕らはマイケルが今でも一流のエンターテイナーであったことを、今までもずっとそう在り続けていたであろうことを改めて認識できたのではないでしょうか。だからこそ、'This Is It' は、彼の最後のコマーシャル作品として商業的にも成功してほしいし、彼にとってエンターテイナーとしての最後の証であってもいいのだと思います。細かい構成の云々よりも、死の直前にして、50歳にして、僕らを感動させるマイケル・ジャクソンの生き様を感じられたこと、それは彼の歌であり、ダンスであり、ステージングであり、彼の躍動であったことを、、僕は素直に称えたいと思います。 余談ですが、僕は『スリラー』ドンピシャのアラフォー世代ですけど、当時、スーパースターだったマイケル・ジャクソンのことを実はあまり好きではありませんでした。それはおそらく彼の姿が必要以上に煌びやかで、あまりにも作り込まれた「虚像」という印象が強かったからだと思います。しかし、スーパースターというのはそもそも作られるものですし、幻想です。それはまたマスイメージ故に簡単に覆るものです。ここ10年程の不遇の時代を経て、マイケル・ジャクソンという幻想はすっかり地に落ちたと思われました。しかし、彼は天才でした。彼の天才は、彼を取り巻くあらゆる負のイメージを超えて、彼を一流のエンターテイナーと誰もが認めるに十分なタレントだったのです。この作品はそのことをよく伝えます。それだけでもマイケルにとって大きな意義と価値のある作品なのだと僕は思います。そして、様々なことを抱え、乗り越え、失い、それでも昔と全く変わらない「愛と平和」を歌うマイケルのことを今では素直に尊敬します。ピース。 
[映画館(字幕)] 8点(2009-11-01 22:25:16)(良:1票)
18.  空気人形 《ネタバレ》 
とても胸をうつ映画だった。空気人形っていうのは、現代に生きる人々のある種の象徴であり、その実体であり、何のつながりもない登場人物たちの心無き心の純粋な在り様であり、、、まぁいろんな意味にとれそうだけど、そのメタ的な要素以上に僕はペ・ドゥナ演じる生き生きとした「空気人形」の姿に胸を打たれたのである。  僕が一番感動したのは、やっぱり、彼女の空気を抜き、吹き込むところかな。彼は言うのである。「空気を抜きたい」と。それは多分、空気を入れたいということ。空気を抜き、そして吹き込む。また抜き、吹き込む。その時、彼と彼女を捉えた充実感。これは何というコミュニケーションだろうか。彼女の心を捉えたもの。しかし、彼女がそれを手に入れてしまったこと自体がそもそもの悲劇なのであった。。  得られないことよりも、失うことの方が、つらい。 (川上弘美『これでよろしくて?』より)  『空気人形』は、心を持ってしまった空気人形のお話。空っぽなのに、心を持ってしまう、空気人形。心を持つって、一体どういうことなんだろう? 心って何だろう? 空っぽの心って? 空っぽって?? 空っぽな人間と空っぽな空気人形。でも、本当に空っぽなのは、空気で出来ている空気人形だけ。僕らは実体として空っぽなわけではない。もっと得体の知れない機能のかたまりとしてあるもの。でも、人間として、関係としてあるとき、人は空っぽになる、ような気がする。そして、空っぽに耐えられず、それを埋めたいと願う。 人は自分自身が空っぽなのではなく、ただ空っぽに捕まえられるのである。その空っぽを相手にして(格闘したり、哀願したりして)、どうしようもなく空振りしてしまう。この作品の登場人物達は、実は空っぽというよりも、ただ空振りしているだけなのではないか。だから、彼ら(彼女ら)に希望は、、、ある。それに対し、空気人形は失うことによって心が萎み、最後にまた空っぽになってしまった。。  過食症の女性はバットを振り続けていたからこそ、偶然にもボールに当てることができた。窓を開けることができた。そういう類の希望がこの作品にはある。僕らの中に潜在化した「心をめぐる物語」。それが登場人物達の心を通り抜け、空気人形によって語られる。つなげられる。この映画は、そういうファンタジーなのだと思う。
[映画館(邦画)] 10点(2009-10-09 23:10:30)(良:1票)
19.  愛を読むひと 《ネタバレ》 
ケイト・ウィンスレットの演技に脱帽。原作のハンナのイメージそのままに、物語る身体を忠実に再現してみせる。出来れば、原語であるドイツ語の台詞だったらどんなにか良かっただろう。(あと、タイトルは何故『朗読者』でなかったのだろう?) この物語は、そして彼女の演技は、語られないハンナの生き様を否応なく想像させる。少年と同じように、僕らは強く惹きつけられる。 ハンナの立ち姿とその因果を見るにつけ、悪とは?善とは何だろう?ということを深く思う。『1Q84』ではないけれど、この世の中に絶対的な悪がないように、絶対的な善もない。善悪とは静止し固定されたものではなく、常に場所や立場を入れ替え続けるものだ。 ハンナは親衛隊であり、ユダヤ人収容所の看守だったことが大罪であった。戦後20年が過ぎ、彼女はナチ狩りの裁判によって断罪される。戦後20年の視点により、同じドイツ国民の名において、戦時の彼女が断罪されるのである。しかし、彼女が罪を認めたのは、「文盲」であり、そのことを自らに恥じていたからだった。彼女には物事の「ほんとう」を知るすべがなかった。そういう意味でこそ、彼女は真の悪人だったのだろう。  善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。 – 『歎異抄』第3章  悪人  衆生は、末法に生きる凡夫であり、仏の視点によれば「善悪」の判断すらできない、根源的な「悪人」であると捉える。  阿弥陀仏の大悲に照らされた時、すなわち真実に目覚させられた時に、自らが何ものにも救われようがない「悪人」であると気付かされる。その時に初めて気付かされる「悪人」である。   善人  「善人」を、自らを「善人」であると思う者と定義する。「善人」は、善行を完遂できない身である事に気付くことのできていない「悪人」であるとする。  また善行を積もうとする行為(自力作善)は、「すべての衆生を無条件に救済する」とされる「阿弥陀仏の本願力」を疑う心であると捉える。  出典: Wikipedia  僕らも本来的に救われようがない悪人なのだろう。それは共同性を超えて、私というものの避けがたい在り方を直視させる。しかし、下記のような言葉もある。実は、ここにこそ僕らにとっての生きる「救い」があるのではないだろうか。  「君は悪から善をつくるべきだ。それ以外に方法はないのだから」(ロバート・P・ウォーレン 『ストーカー』題辞)
[映画館(字幕)] 9点(2009-08-09 21:26:37)
20.  天使と悪魔 《ネタバレ》 
作品のメインテーマである宗教と科学という問題は個人的にも興味深いタームである。小説の中のローマ教皇はそれが融合されることを望み、犯人はそれを拒否する。事件は全てそこから生まれた悲劇と言えよう。 僕はこう思う。日本的発想かもしれないけど、宗教(神という概念)はそもそも細部に宿るものだ。またそれは全ての究極の果てにおいて否が応でも関わってくる。ビッグバン以前、高密度の物質と真空エネルギーのインフレーションは、その空間と時間の始まりのゼロ地点→特異点という問題にぶつかる。近年、それはトンネル効果であるとか、量子ゆらぎであるとか、いろいろ言われているが、要はこれが「神のひと押し」であり、科学の限界の先の物語なのである。そういう神懸り的な(人知の及ばない)領域は、宇宙の始まりだけでなく、量子論や生命科学にも存在する。(池谷裕二の最新本はそのことをよく教えてくれる) 全てのフォアフロントにこそ、神は「見出せる」のではないだろうか。 宗教と科学は乖離とか融合とかを意図するものではなく、元々が同じ領域のものである。(特に日本では宗教こそが鎮魂の為の科学だった) この作品ではその認識の違いが最初の死者を生み、死者が十分に理解しながら、犯人が最後まで理解できなかった点となっている。 
[映画館(字幕)] 8点(2009-08-09 21:21:34)
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