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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2597
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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1.  キリエのうた
野外ステージの中央を真正面から捉えた望遠レンズの向こうで、アイナ・ジ・エンドが振り向き、こちらを真っ直ぐに見据えて、歌い始める。 178分に渡るこの“音楽映画”の中で、彼女は主人公“キリエ”として、最初から最後まで歌い続け、人間の脆さと儚さ、だからこそ眩くて手放せない“讃歌”を体現し続けた。 「歌」は、彼女にとっての唯一無二の伝達手段であり、表現方法であり、生き方そのものだった。  岩井俊二のフィルモグラフィーの中で、燦然と輝く“歌姫”の系譜。 グリコを演じたChara、リリイ・シュシュとして歌ったSalyu、里中真白を演じたCocco、その中に、個人的に5年間追い続けたBiSHを終えた“アイナ・ジ・エンド”が刻まれるというこの奇跡は、私にとってそりゃあスペシャルなコトだった。  公開初日に劇場に足を運び、深い情感と共に瞬く間に過ぎ去った178分に、しばらく呆然とした。 素晴らしい映画だと思った。ただしその一方で、この映画を彩る様々な要素が、私にとって特別過ぎることからの好意的なバイアスがかかってしまっているのではないかということを否定できなかった。  決して完璧な作品ではないし、万人受けする映画でもないだろう。 演技者として専門職ではないアイナ・ジ・エンドの“異物感”は、その是非は別にして確実に存在する。 2011年の石巻と大阪、2018年の帯広、2023年の東京、時間や社会状況を超えて行き交うストーリーテリングは、時に散文的で、歪だった。 それぞれの状況における登場人物たちの言動を裏付けるバックグラウンドを映し出しきれていないことに、一抹の物足りなさも覚えた。  そんな思いも抱えつつ、巡らせて、主人公キリエによる劇中歌をヘビーローテーションして、一週間後再び劇場に向かい、2回目の鑑賞に至った。 自分の中で消化しきれない部分を綺麗に呑み込みたいという思いもあったが、それ以上に、この作品を、そこで響き渡る歌声を、「映画館で観た」という記憶の中にもっとしっかりと刻み込んでおきたいという思いの方が強かったように思う。  2回目の鑑賞を経て、やっぱり歪で、ある部分においては非常に脆い映画だなと思った。 ただそれは、この映画が、極めて不安定で未成熟なこの世界の「人間」そのものを描き出していることの証明に他ならないと思えた。  大震災、不況、コロナ禍、遠い国の戦争や気候変動……。平成から令和へ、まさに文字通りの時代の移り変わりの中で、この国が直面した悲劇と苦難と、それに伴う深い鬱積。 この世界は、あまりにも理不尽で、往々にして優しくはない。けれども人々は、傍らの樹木にしがみつくようにして必死に生き延び、今この瞬間を生きている。 暗闇の中でも、僅かな光を見つけて、それを憐れみ、慈しみ、愛を込めて歌い続ければ、きっと“赦し”は訪れる。 それはもはや理屈でも無ければ、信仰でもないと思う。ただひたすらに、この場所に存在し続けることを決めた人間たちの強い意思だ。 “キリエ”が、“歌う”ということに求め続けたものは、例えば歌手としてプロになるというような世俗的なことではなく、その純粋な意思の表明だということを本作は物語っていた。  「音楽映画」と明確に銘打たれたこの映画で、「歌声」そのものにキャラクターとしての人格と映画のテーマを求められた役柄を体現し尽くした、アイナ・ジ・エンドには、ただただ感嘆した。 この5年間、BiSHでのパフォーマンスを通じて、ずうっとアイナ・ジ・エンドが歌う姿を観続けてきたけれど、彼女が辿り着いたその神々しくすらあるミューズとしての立ち振舞に心が震えた。  その主人公を映画世界の内外で支える存在として、役者としての新境地を開いてみせた広瀬すずも素晴らしかった。 心が締め付けられるくらいに相変わらず美しいその鼻筋と、キャラクターの心の奥底の闇を表現する漆黒の瞳に、終始釘付けになった。彼女が演じた逸子(真緒里)の2018年から2023年に至る「変貌」こそが、この現実世界そのものの激動と悲哀を象徴していたと思う。     語り始めるまでに時間はかかり、いざ語り始めたならば、それがなかなか尽きることはない。 「スワロウテイル」や「リリイ・シュシュのすべて」など、過去の岩井俊二作品と同様に、時代を超えて様々な世代が観続け、愛され、または嫌悪され、その素晴らしい音楽と共に思い出され続けるであろう、忘れ難い“現在地点”だ。
[映画館(邦画)] 10点(2023-10-15 00:05:50)(良:1票)
2.  君たちはどう生きるか(2023)
少し唐突な印象も残るくらいにあっさりと映画が終わった。 その時点で、とてもじゃないが言語化はまだできておらず、一抹の戸惑いと、何かしらの感慨深さみたいなものが、感情と脳裏を行き交っている状態の中、少しぼんやりとエンドロールを眺め見ていた。 すると、「作画協力」として、今やこの国のアニメーション文化を牽引する錚々たるスタジオの名前が整列するように並んでいた。 他のアニメスタジオが作画協力に名を連ねること自体は、さほど珍しいことでもないのだろうけれど、スタジオジブリ作品、そして本当に宮崎駿の最後の監督作品になるかもしれない本作のエンドロールにおけるその“整列”には、何か特別な文脈があるように思えた。  そしてはたと気づく、ああそうか本作の「真意」は、クリエイティブの極地に達した創造主からの、新たな創造主たちに向けたメッセージだったのだなと。  宮崎駿、その想像と創造の終着点。 そこには、彼がこの世界に生まれ落ち、いくつもの時代を越えながら吸収してきた数多のクリエイティブの産物で溢れかえっていた。 彼が吸収したものが、いくつものアニメーション作品の中で具現化され、一つ一つの「世界」となって、積み木のように積み上げられていったことをビジュアルによって物語っているようだった。 そしてその世界は、「崩壊」という形で、時を遡って、何も生み出していない無垢な自分自身に継承される。それはまるで、クリエイターの根幹たる魂が「輪廻」していくさまを見ているようだった。   宮崎駿が生み出した「世界」そのものは、創造した自分自身の手によって崩壊という終焉を経て、無に帰す。 ただし、同時にそこからは、色とりどりの無数のインコが飛び立っていく。 この色とりどりのインコたちこそが、エンドロールに名を連ねた新世代(ジブリ以降)のアニメスタジオであり、新たな創造主たち(=クリエイター)を表しているのだろう。  “声真似”をするインコを用いたのは、どこか“ジブリっぽい”アニメ作品を量産しているクリエイターたちへの皮肉めいた批評性、というか明確な“イヤミ”もあるのかもしれない。 その一方で、宮崎駿自身がそうであったように、先人たちの数多のクリエイティブを吸収し、真似て、発信しようとするプロセスは、必然であり、正道であることを暗に伝え、激励しているようにも思えた。   あらゆる側面において、極めて意欲的な作品だったと思う。 ただ、本作においいて、宮崎駿というクリエイターの本質とも言うべき“支配力”や“エゴイズム”が、全盛期同様に満ちていたかというと、そうではなかった。 クリエイティブという活動そのものの性質や限界を考えると、それは至極当然のことだろう。 むしろ、クリエイターとしての限界のその先で生まれた作品だったからこそ、本作はそれに相応しい「崩壊」や「終焉」をエモーショナルに描き切ることができたのだと思う。  創造と崩壊、巡り巡ったその先に、君たちはどんな「世界」を創るのか。 様々な解釈はあろうが、それは、「夢と狂気の王国」築き上げ、積み上げ続けた一人の狂気的なクリエイターの、決して優しくはないが、力強いメッセージだったと思う。
[映画館(邦画)] 8点(2023-07-20 12:47:44)(良:1票)
3.  きみと、波にのれたら
「あらら」と、ちょっと呆気にとられるくらいにチープな映画だった。 1990年前後の“ホイチョイ・プロダクション”の映画を観ているような「軽薄感」が結局最後まで拭えなかった。  その前時代的な作品の空気感自体は、製作陣の狙い通りだったのだろうと思う。 若い男女が“都合よく”運命的な出会いをして、都合よく恋に落ちて、都合よく死別して、都合よく摩訶不思議な邂逅を果たすという浅はかな展開そのものを否定したいわけではない。  そのようにストーリーテリング的は稚拙だとしても、多くの人に愛されてやまない名作はたくさんある。 ただし、そういう映画に必要不可欠な要素は、ストーリーなんてどうでもよくなるくらいに魅力的な“キャラクター”だと思う。そして、彼らが織りなす刹那的で眩い悲喜劇に人は魅了されるものだろう。  だが、残念がら、この映画に登場するキャラクターたちには、そういった魅力が備わっていない。 人間的に嫌悪する余地すらなく、只々、“フツー”で“浅い”のだ。 都合のよいストーリー展開の中で、浅はかな若者たちが、特にエモーショナルなわでもなく感動めいたものを押し付けてくる印象を受け、終始“気持ち悪かった”。  その“気持ち悪さ”が極めて残念だった。 なぜなら、理屈ではなく、摩訶不思議で、自由闊達な、“気持ちよさ”こそが、湯浅政明というアニメーション監督の真骨頂だと思っているからだ。 「夜は短し歩けよ乙女」「夜明け告げるルーのうた」そして「DEVILMAN crybaby」と、立て続けに自由闊達なアニメーション表現で独自の世界観を構築し、圧倒的な立ち位置を確立した湯浅政明監督の最新作として大変期待したのだが、冗長なプロモーションムービーかのごとき稚拙な映画世界から最後まで脱却できなかったことは至極残念だ。
[映画館(邦画)] 3点(2019-06-27 22:22:32)
4.  寄生獣 完結編
「映画化」のインフォメーションに際し、最も眉をひそめたポイントは、“田宮良子”を演じるのが深津絵里だということだった。 深津絵里は大好きな女優の一人だ。ただ、原作漫画において殆ど主人公の一人と言っても過言ではないキーパーソンである寄生生物“田宮良子”の文字通り「異質」なキャラクター性と、これまで深津絵里という女優が演じてきた多くのキャラクターとのイメージが、全く合致しなかった。 原作漫画の“信奉者”故の過剰な拒絶反応が、そもそも「映画化」という報にあった上に、その主要キャラクターにおけるイメージの乖離が、この映画を遠のかせた大きな要因だったと思う。  しかし、鑑賞後、結果的には、まさに手のひらを返すようにこの映画作品を称えたくなった。 その最大の要因も、深津絵里演じる“田宮良子”だった。 原作漫画に登場するキャラクターとは、やはり風貌も雰囲気も異なっていたけれど、深津絵里の“田宮良子”は素晴らしかった。 原作漫画のハイライトである“田宮良子”の最期のシーンが、映画化においても当然肝になると思っていたが、このシーンがほぼ完璧で、原作同様に泣いてしまった。正直、もうそれだけで、この映画化の価値は揺るがないと言っていい。 “田宮良子”の独壇場であるこのシーンで、深津絵里は、確固たるキャリアに裏打ちされた女優力で、見事にアプローチし、表現しきっている。  深津絵里に限らず、出演する俳優陣の演技がみな安定しているからこそ、諸々の改変点も許容の範疇に収まったのだと思える。 無論、改変点に対する違和感や拒否感が無くなることはないけれど、演者の演技に「説得力」が備わっているので、「これはこれでありだな」と思えたところも多かった。  “田宮良子”が「人間の真似をして笑ってみた」シーンは、原作においても印象的な場面だが、その“真似ごと”のきっかけを映画では「嘲笑」から「慈愛」に変えている。 原作通りのキャラクター表現であれば、この改変は完全に「改悪」と断罪すべきところだったが、映画のキャラクター設定と深津絵里の演技プランが、原作キャラに対して一歩踏み込んだものになっているので、原作とは別の感動を生み出していた。 また、前述の“田宮良子の最期”と、同じくハイライトの一つである“広川の最期”を並行して描いた点は、映画製作における「予算」「尺」など諸々の制約を超えていくための巧い改変だったと思う。  期待を超えた出来栄えに対する、原作ファンならではの「補完」も大いにあったのかもしれない。 が、鑑賞後確かな「満足感」を携えて、すぐさま自室の本棚に並ぶ原作全巻を読み直させたのだから、大成功の「映画化」であったことは認めざるを得ない。
[インターネット(邦画)] 8点(2019-02-24 23:53:18)
5.  寄生獣
最初にきっぱりと言っておくと、岩明均が描き出した漫画「寄生獣」は、僕にとって人生のバイブルだ。 初めてこの漫画を読んだとき、当時10代だった僕は、最終話における寄生生物ミギーの「心に余裕(ヒマ)がある生物 なんとすばらしい!!」という台詞に心から救われた。以来、この漫画は常に僕の人生の傍らに存在している。  というくらいのファンもとい“信奉者”なので、国内で映画化と言われても疑心しか無かったし、とてもじゃないが劇場に足を運ぶ気にもならなかった。 そうして劇場公開から4年余り経過し、某動画配信サービスのラインナップの中から“当たり屋”的なスタンスでようやく鑑賞に至った。  結果的には、言いたいことは無論尽きないが、ハードルを下げきって観た分、想像以上に無難に実写化しているとは思えた。 原作の信奉者として、改変箇所には一々違和感と拒否感を禁じ得なかったけれど、実写化する以上は一定の尺の中に収めることは避けられないことであり、あらゆる制約の中で、ストーリーテリングとキャラクター設定を整理しつつ、纏めている部分は致し方ないと思う。そして、「あ、なるほど」と少なからず感心する改変ポイントもあった。 そもそもモノローグが多い原作漫画なので、実写化にあたっては意外と話運びそのものが難しかったのではないかと思うが、キャラクターを整理・統合しつつ、破綻しない程度に改変できていたのではないか。  キャスティングを含め、俳優陣も概ね良かったと思う。 特に、主人公“泉新一”役の染谷将太、キーパーソン“田宮良子”役の深津絵里については、ビジュアル的にも表現的にも原作キャラと合致しているというわけではなかったけれど、それぞれが独自の演技プランで的確な役作りをしていたと思える。 一部酷評も目にしたが、“島田秀雄”を演じた東出昌大も、この俳優特有の“棒演技”感が絶妙にマッチしており、原作の“島田秀雄”というよりは、寄生生物キャラ全体に共通する作り物のようなおぞましい無機質感を体現できていた。  と、溜飲を下げる一方で、根本的な演出面では稚拙さが際立っていたと思う。 ストーリーテリング自体は整理できていたけれど、その分、一つ一つの描写がとても薄っぺらい。 俳優陣はそれぞれ頑張っていたが、感情を揺さぶられるほどの情感を引き出すには至っておらず、これはすべて監督の演出力の無さに起因すると思わざるを得ない。 「混じった瞳」「火傷の手」など、キーポイントとなるカットをしっかりと押さえるだけでも、印象は随分変わったはずだ。せっかく原作という“絵コンテ”が存在するのに、そういう画作りの不味さが際立ってしまっているのは残念だ。  あとは「みんなの生命を守らなければ」ではなく、「みんなの生命を守らねば」だ!だとか、細かすぎる難クセは枚挙にいとまがないが、「後編」も不安半分、期待半分で観てみようと思う。 浅野忠信の「後藤」には期待している。
[インターネット(邦画)] 6点(2019-02-09 23:50:40)(良:1票)
6.  KINGSGLAIVE FINAL FANTASY XV
テレビゲームに対して完全な門外漢なので、「ファイナルファンタジー」というRPGを一切プレイしたことがない。 30年近くに渡ってシリーズ化されてきた大人気ゲームであることは勿論知っているけれど、描き出される世界観に対しては全く無知である。 そんな者が、シリーズ最新作の発売に合わせて公開されたこの映画化作品を観るべきでは本来ないのかもしれないが、会社の部下(ゲーマー)に猛烈に薦められたため、彼に借りて鑑賞に至った。 こんな機会でもなければ、絶対にチョイスしなかった映画であろうから、これはこれで良い機会だったとは思う。  昨今のテレビゲームのビジュアル的なクオリーティーが「物凄い」ことは認識していたが、いざ観ていると本当に物凄い。 主要キャラのビジュアルに関しては、生身の俳優が演じているのかと見紛うほどで、アニメーションと実写とのビジュアル面での境界線は益々アバウトになってきていると痛感した。 舞台となる都市やアクション描写のビジュアルは言わずもがな。圧倒的なクオリティーで展開される映像的な物量は、「ロード・オブ・ザ・リング」や「トランスフォーマー」などハリウッドの超大作と比較しても引けを取らない迫力をクリエイト出来ていたと思う。  物語としては、どうやらゲームソフトの最新作「FINAL FANTASY XV」本編の前日譚を描いているらしく、本編主人公の父王を軸としたファンタジーアクションが繰り広げられる。 ストーリー展開は決して目新しくはなく、数多のファンタジー映画の二番煎じ感は強く感じる。まあしかし、ベタな王道的展開と捉えれば許容範囲といったところか。  エンディングロール後に、ゲーム本編の主人公らが登場し、今まさに新たな冒険に踏み出そうとしている様が映し出される。 門外漢の僕ですらまんまと「ゲームをプレイしてみたいな」と思わせた時点で、この映画作品の役割は充分に果たせているのだろう。
[ブルーレイ(字幕)] 5点(2016-12-11 07:41:57)
7.  君の名は。(2016) 《ネタバレ》 
「独りよがり」な映画である。 普通この言い回しには、多分に否定的な意味が含まれているものだが、新海誠というアニメーション監督が生み出す作品においては、それは必ずしも当てはまらない。 「独りよがり」だからこそ、表すことができる「美学」と「美意識」。それがこの監督の作品の唯一無二の魅力だと思う。  他に類を見ないあまりにも美しいアニメーション表現が、やはり素晴らしかった。 ただ、この監督の過去作には、その“美しさ”が際立つあまり、ただただそれに自己陶酔しているだけに見える作品があったことも否めない。  特に前作「言の葉の庭」は、むせび泣くように降り続ける雨に包まれた街並みが美しい映画ではあったけれど、そこに描き出された物語は、ひたすらに“青臭い”ばかりで、まったく感情移入することが出来なかった。 それは、独善主義的に、自らの美意識を追求する新海誠作品ならではの、孕まざるを得ない“あやうさ”だったようにも思う。 新海誠の名を知らしめた名作「秒速5センチメートル」にも、その“あやうさ”はあった。 そして、今作においてもその側面が無くなったわけではない。 主人公たちの言動はやはり青臭く、ストーリーテリングには都合のいい自己満足感が溢れている。  でも、今作においては、その青臭くて、独りよがりな描写そのものが、何にも代え難いエモーションとして、満ち満ちている。  “星降る夜”という数多の表現作品の中で、“美しきもの”として表されてきたものが孕む圧倒的な神々しさと絶対的な脅威。 それは、美しすぎるものが併せ持つ荘厳さと残酷さの象徴だったように思う。 そして、その美しさと残酷さは、そのまま主人公二人の“若さ”に直結する。 若く、未成熟な彼らは、安直で直情的であまりに危うい。でもだからこそ、何よりも美しくて、エネルギーに溢れている。  その美しいエネルギーは、“流星”のそれを遥かに凌駕し、神にも抗う。 それこそが、この映画が最も描き出したかったことなのだと思える。  「過去」は、どうやったって変えられない。 身近な交通事故から“3.11”のような天変地異に至るまで、ありとあらゆる悲劇を目の当たりにしてきている人々は、そのことをよく知っている。 ただし、その「理」を、強引だろうが、無謀だろうが、ご都合主義的だろうが、人物の“感情の力”一つだけで時に覆してしまえることも、「映画」に許されたマジックだ。と、思う。  世界が終わるその間際だろうと、ついに果たせた焦がれた人との邂逅においては、状況を忘れて、その人と話し触れ合うことだけに没頭する。 「そんなことをしている場合か」という非難は、あまりに無意味だ。 若者たちのその無垢な「感情」と「行動」こそが、世界を救う唯一の「方法」だと、この映画は伝えているのだから。   繰り返しになるが、独りよがりで、青臭い映画であることは間違いない。 この種のストーリーを繰り広げるのであれば、辻褄が合わない点もあまりに多過ぎたと思う。 これだけ素晴らしい作品なのだから、ディティール面でもう少し他者の介入があったならば、もっと絶対的な名作になっていたのでは。と、思わなくはない。 けれど、思い直す。 この肯定と否定が渦巻く不完全さこそが、この作品が表現することの価値なのだろう。 若い二人が、町よりも、世界よりも、何よりも先ず「君」のことを思って、闇雲でもなんでも全力で何かに向かって走る。 そのエモーションに勝るものなど、実際無いのかもしれない。  恐らく、いやほぼ確定的に、この作品の社会現象的な大ヒットに伴って、新海誠監督の次作には、更に潤沢な環境と引き換えに、ありとあらゆる制限としがらみが生まれることだろう。 その時、この“独りよがり”なアニメーション監督が、一体どのようにして、どのような作品を生み出すのか。 今から、不安と期待が入り交じる。
[映画館(邦画)] 8点(2016-09-14 10:28:21)(良:1票)
8.  清須会議
ここ数年の“彼”の作品に対しては殆どすべてに共通して感じることだが、この小心者の劇作家は忙し過ぎるのだ。  数年前に原作小説が書店に並んだ時の期待感はよく覚えている。 三谷幸喜が描く時代劇、それも“会議もの”。「12人の優しい日本人」をはじめ、“密室劇”こそがこの劇作家の最も特異とする舞台設定であることは明らかで、ようやく三谷幸喜がそこに帰ってきたのかと喜んだ。 その時点で原作小説を読んでも良かったのだが、同時に映画化決定という報を聞き、我慢することにした。  そうして鑑賞。  題材自体は極めて面白いし、描き出そうとした人間描写とテーマ性も興味深い。 決して面白くない映画ではないと思う。 ただし、物語としての作劇が浅く、故に後に残るものがとても薄い。  辿り着いた結論としては、結局冒頭の一文に尽きる。 もっとしっかりと時間と労力をかけてストーリーテリングの作り込みに注力したなら、歴史的にも、人間的にも、深みが備わった喜劇に仕上がった筈だ。  過剰なほどに豪華なキャスティングが悪いとは言わない。 けれども、揃いも揃った豪勢な俳優陣を並べ立てたはいいものの、それに対してただ浮き足立つばかりで、目先の陳腐なコメディに走っていては、本末転倒もいいところ。 残念ながらこの劇作家には、これほどの豪華キャストを“監督”としてさばくだけの度量は見受けられない。 西田敏行や天海祐希をせっかく呼んだけど思ったよりも面白いシーンにならなかったから、カットしよう!くらいの剛胆さがなければ、このキャスティングが逆に勿体ない。  三谷幸喜は、監督業に早々に見切りを付けて、今一度“脚本家”としての原点回帰をしてみるべきだと改めて思う。  そして、西村雅彦、梶原善、相島一之ら劇団時代からのメンバーで再構成された舞台版「清須会議」が観てみたい。 あ、大泉洋はTEAM NACSからの“客演”として秀吉役を続投で良いよ。
[CS・衛星(邦画)] 5点(2014-09-17 00:17:36)(良:2票)
9.  凶悪
恐ろしい映画だったと思う。  自分はこの映画に登場する“彼ら”ではなく、“彼ら”に関わった人間でもないという無意識の立ち位置による屈折した「愉悦」を知らぬ間に敷き詰め、この映画に「娯楽」を感じている自分の意識に気付いたとき、この映画の「凶悪」というタイトルの真意を垣間見た気がし、ゾッとした。  描かれる事件と犯罪が「真実」であることを念頭において観ているわけだから、映し出される凄惨な描写に対して「痛み」や「悲しみ」を感じなければならないという“建前”を意識しているにも関わらず、ピエール瀧(=須藤)の爆発的な残虐性に何故か高揚し、リリー・フランキー(=先生)のおぞましいまでの狂気に引き込まれてしまう。 実在の被害者に対して後ろめたい気持ちを多分に感じつつも、描きつけられる「凶悪」が次に何を見せるのか、どこか期待をしてしまい、その都度「不謹慎」という言葉をぬぐい去ることに苦労した。  「あなた こんな狂った事件追っかけて 楽しかったんでしょう?」  終盤、主人公の妻のこの台詞により自分の中で見え隠れしていた感情が突如丸裸にされる。 見て見ぬ振りをしていた自分自身の深層心理がふいに明るみに放り出されたような気がして、主人公と同様に「やめろ!」と叫びたくなった。  「映画」である以上、いくらノンフィクションが原作だとはいえ、脚色されている部分は大いにあるだろう。 ピエール瀧が度々発する「ぶっこんじゃお」というあまりに印象的な台詞や、リリー・フランキーの脱帽するしかない「怪演」など、映画的な面白さが加味されている要素は多く、それはまさにこの作品が映画として優れている点でもあると思う。 俳優たちの表現はことごとく素晴らしい。一つ一つのシーンも綿密な計算と明確な意思をもって構築されており、見事だったと思う。  ただ敢えて苦言を呈するならば、もう少し「編集」の巧さがあれば、同様の深いテーマを孕んだまま、もっと“面白い”映画に仕上がっていたようにも思う。 もし同じ題材で、というかこの監督と俳優が撮った同じ映像素材を、世界的な映画巧者が編集したならば、例えばアカデミー賞をも席巻するような名実ともに質の高い映画になりそうな気さえする。  ま、そんなのは一映画ファンの身勝手な妄想であり、実際どうでもいいことだ。 こういう本当の意味で骨太な映画が、もっと沢山国内で製作されることを願いたい。
[映画館(邦画)] 8点(2013-10-26 17:12:34)
10.  巨神兵東京に現わる 劇場版
「特撮」という“業”は、「破壊」の為にあると言っていい。 それは即ち、人間に唯一許された“神の真似事”と言ってもいい。  その真理において、“この題材”を「特撮」で描いたことは、まさに正しい。   「創造」とそれに伴う「破壊」に総毛立った。以上。
[映画館(邦画)] 7点(2013-05-27 23:53:35)(良:1票)
11.  金融腐蝕列島[呪縛]
大手銀行の経営崩壊危機、それに伴う日本経済の混乱、日々のニュースのトピックスでそういった言葉が乱れ飛んでいても、小さな一般市民にとっては、事の重大さの意味は理解出来ても、どこか別世界の出来事のように思えてしまうのが実情。 でも、それらを司る金融機関の職に就いている人々も、当然ながら小さな一般市民である。 この映画はその彼らを中央に据えて描き出す事によって、金融危機は常に社会の中心にあり、その影響は極めて身近なところに存在するということを訴えてくる。  経営崩壊危機からの脱却・再出発を図る大銀行の内情をつぶさに描き、一級のエンターテイメントに仕上げることに成功している。 実力派キャストを揃えた群像劇には、今作にも出演している仲代達矢、丹波哲郎らがメインキャストとして常に顔を揃えていた時代の日本映画にあった“熱量”を彷彿とさせるものがあった。 そこに役所広司の安定感や椎名桔平のギラギラ感等が加味され、「芝居」としての見応えが溢れていたと思う。  明らかに意図的だったと思うが、時に過剰なまでに仰々しい台詞回しや俳優の動きの付け方にも、見栄え的には極めて地味になってしまいがちな題材を「娯楽」として見せようとする「工夫」が感じられ、原田眞人監督の演出の冴えを感じた。この人は、こういう社会派ドラマを撮らせると本当に巧い。  断ち切れたかに見えた「呪縛」の闇の深さを漂わせるラストシーン。 すみやかに晴れ渡っているように見える空に、突如として不穏さを感じる。その空はそのまま現実社会に繋がっていることを暗示させ、恐ろしい。   P.S.椎名桔平の存在がいいスパイスとして効いていたと思う。ラストの“開き直り”は最高。 個人的には「アウトレイジ」の役柄と人間的な部分で通じるものを感じた。 もしかして彼は、あのまま身を落とし、「大友組」に拾われたんじゃないだろうな……。
[インターネット(字幕)] 7点(2013-05-02 16:53:46)
12.  桐島、部活やめるってよ
上映が終わり手洗いに行った。鏡にうつる自分の顔をまじまじと見て、「老けたな」と思った。 そりゃそうだ。三十路を越え、結婚をし子供までいるんだから、ついさっきまでスクリーンいっぱいに映し出されていた高校生たちの“若さ”が、今の自分にあるわけはない。 あるわけないのだけれど、入り乱れる彼らの思いは、もはやうすぼんやりとし始めている記憶の甦りと共に、自分の感情の中に入り込み身につまされた。  きっと誰しもが、この映画に映り込む高校生たちの“誰か”と同じ“立ち位置”で、生活をしていたはずだ。 それが誰であったかなんて事は重要ではない。重要なことは、誰しもが「高校」という奇妙な「階級社会」においていつの間にか与えられた立ち位置で、もがきながら生きたということであろう。  高校生は大変だ。時に過酷なまでに。 それに対して一部の大人は、「実社会の荒波の厳しさ」を安直に強調するのかもしれない。 しかし、そんなものは比較の対象にはならない。 限られた経験値、限られた世界の中で、盲目的に自己を顕示し、また抑え込む。それをひたすらに繰り返し、葛藤を繰り返す。 それは先が見えない暗がりを、時に孤独に、時に手を取り合い歩んでいくようでもある。  でも、だからこそそこには、何にも代え難い輝きが存在する。 葛藤の果てに、「こいつら全部食い殺せ!」と高らかに言い放った映画オタクの主人公は、結果として何かを得たわけではない。 しかし、何も選び取れずフラフラと自分の成すべきことを定めきれずにいた幽霊野球部員は、逆光を背にした映画オタクが眩しくて直視できなかった。  それは、高校特有の歪なヒエラルキーが生み出した「光」だったのか「影」だったのか。  人それぞれ、誰に感情を移入するかで、この青春映画の「感触」は大いに異なるのだろうと思う。 面白いと思えるかどうかも、実際人それぞれだろうし、それでいいと思う。 ただ、きっと多くの人が、この映画を観て、自らのあの“限られた世界”で過ごした日々のことを思うだろう。 それだけで、この作品は青春映画として明らかな傑作と言える。
[映画館(邦画)] 10点(2012-08-26 00:37:16)(良:5票)
13.  金環蝕(1975)
報道番組では連日のように国内政治の「弱体化」とそれに伴う社会情勢の不安定さが伝えられている。 「弱体化」と言うが、ならば過去の政治が今と比べて優れていたのかと言うと、決してそんなことはないだろう。 戦後の混乱からたとえ強引にでも劇的な復興を成したことは認める。ただその内幕では、真っ黒な混沌が渦巻き、幾重にも膿が蓄積され続けたのだろう。 その深くこびりついた膨大な膿が、時代が変わりゆく今になって徐々に表面化している。 詰まりは、この国の政治は「弱体化」しているのではなく、元々それほど強大な力なんてなくて、長きに渡って覆い隠してきた混沌が目に見えるようになった今、一体どうすれば良いのか分からない状態なのだと思う。  そういうことを、この映画で一部始終描かれる数十年前の日本政治の混沌の様を見ていて思った。  この映画に善人は出てこない。政治の内幕を描いた物語でありながら、登場する人物は揃いも揃って“悪い奴ら”ばかりである。 各々が「甘い汁」を吸おうと躍起になり、それらの行為に良心の呵責などは微塵も無い。当然、善が勝るというようなカタルシスは得られない。だから怖い。  悪行が公然とまかり通り、混沌は闇の中に埋められた。この国には、そんな時代が確実にあって、その上に今の社会が成立している。もちろん、その名残は方々で残っているだろう。 その現実を一般人がもっと認識し、何が善で何が悪なのか、その一つ一つを考えなければ、この国の先は無い気がする。
[CS・衛星(邦画)] 7点(2010-08-19 14:42:50)(良:1票)
14.  飢餓海峡
久しぶりに、古い日本映画の骨太なサスペンスが観たくなり、週末の深夜のレンタルショップで今作のDVDを手にとった。  深夜の鑑賞で、183分という上映時間はさすがに長かった。 物語の題材も想像よりもセンセーショナルなものではなく、どちらかというとありきたりな部類のものだったので、淡々としたモノクロ映像の中で次第にまどろんできた。  しかし、ストーリーの展開以上に、映し出される登場人物たちの言動や、時代の風俗描写に惹き付けられる部分があり、そういう部分がこの映画の「力」なのだろうと思った。  時に緻密に、時に大胆に描き出される映画作りの空気感は、まさにこの時代の日本映画の力強さだと感じる。  ただ細かい展開を見ると、もう少しサスペンスとして面白味を持たせることもできたのではないかと思う。 10年という年月の間に絡む人間模様をもっと密に描くことができれば、それぞれの人間性や葛藤が更に如実に伝えられたのではないかと思った。 いまひとつ、それぞれの人間の感情が響いてこなかったことは、映画の性質上勿体なかった。  ただし繰り返しになるが、この大長編を独特の空気感で描き出すことができたこの時代の日本映画のパワーは物凄い。 現在、これほどの規模の大作映画の製作となれば、安易な商業主義に走ってしまうことは必至であり、今作のような特徴のある作品には成らないと思う。
[DVD(邦画)] 7点(2009-04-26 10:27:22)
15.  キサラギ
自殺したマイナーアイドル“如月ミキ”の一周忌に集まった曲者ぞろいの5人の”ファン”たち。 全編通してまんべんなく“笑い”を散りばめつつ、密室の中でアイドルの死の「真相」を突き詰めていく様は、「12人の優しい日本人」を彷彿とさせる。と言えるほど、よく練られた設定がスバラシイ。  5人のキャラクターそれぞれが立っていて、それぞれのキャラクター設定や、伏線となる言動が徐々に結びついていく様に、登場人物たち同様にハッとなる。それがサスペンスとしても心地よい快感となり、どんどんのめり込んでいけて、とても楽しい。  ストーリーやサスペンスとしての伏線自体は、実はとても安直なもので、それほど突き詰められたものではないのだけれど、愛すべきキャラクターと映像世界が、トータル的に「良い映画」として仕上げていると思う。 最終的に、観客も“如月ミキ”ファンになってしまうような、そんな愛着感こそ、この作品が映画として「スバラシイ」と言える最大の要因だと思う。  惜しむらくは、宍戸錠の出演はお宝DVDの中だけでとどめてほしかった。 5人揃って“見事”な振り付けを披露するファンキーなエンディングで幕を降ろしてくれていた方が、よっぽど映画としての後味が優れていたと思う。
[映画館(字幕なし「原語」)] 9点(2007-08-12 19:15:10)
16.  気球クラブ、その後
かつて「気球クラブ」というサークルに集った若者たち、サークルのリーダーの死をきっかけにし、彼らが当時内に秘めた様々な想い、今なお続く想いを、“過ぎ去った時間”を通じて切なく、断片的に描いていく。  過ぎ去った時間の中で彼らが見ていたものは、何だったのだろう。 たぶんそれは一つではなく、本人たちも明らかにできないくらいあやふやで、不確かなものだったのだろう。 誰もその時の自分の「想い」を正確に説明できなどしない。 ただ、だからこそ、その時間の中での「想い」には価値がある。 大切なのは、振り返り答えを見出すことではなく、かつての「想い」と再びそれに触れた「瞬間」そのものだと思う。  言葉ではなかなかうまく説明できないけど、この青春群像劇が伝えることは、誰しもが経験する過去の想いに対する「感覚」なのだと思う。  P.S. 永作博美が、ほんとに素晴らしい。
[DVD(邦画)] 8点(2007-07-24 23:37:47)
17.  嫌われ松子の一生
「不幸」。とにかく「不幸」。映画の90%以上は、松子という“運命”に嫌われ続けた女の「不幸話」である。独特の美しいビジュアルと、特異でユーモラスな演出に彩られてはいるが、時に胸クソが悪くなるほどに、この物語は“不幸せ”に溢れている。あとほんの少しアプローチが間違っていれば、「大嫌い」な映画になっていたかもしれない。だが、ラストの描写では涙がにじんだ。 松子がどうしてこんなにも「不幸」であると同時に、「美しく」見えるのか。それは彼女が誰よりも、小さな小さな「幸せ」を望み続けたからだと思う。 主人公の女の「不幸」と、それを彩るミュージカル。そして、主演女優と鬼才監督の確執。映画のテンションとテーマ性はまるで違うが、この映画は日本版「ダンサー・イン・ザ・ダーク」だ。 これほどまでに、美しさを携えて、「不幸」に汚れられる女優は中谷美紀しかいない。「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のビョークと同様に、彼女が途中降板しなかったことが、最大の「幸福」かもしれない。
[映画館(字幕)] 8点(2006-05-29 19:07:15)
18.  木更津キャッツアイ 日本シリーズ
正直、木更津のノリで2時間は長い!ドラマの段階からストーリーなんてあってないようなものなのだから、映画として120分ぶっ続けってのはキツいものがあるのは否めない。ただそれでも最後まで見せてしまう。それこそこの「木更津キャッツアイ」という奇異なエンターテイメントの奇跡なのかもしれない。もはや惰性的なノリだけで押し通す映画、そんなものがあってもいいのかなあ……。
[DVD(邦画)] 3点(2005-02-07 02:18:29)
19.  斬る(1962)
三隅研次の陰影を浮き立たす映像美は流石に素晴らしい。が、なんなんだこの脚本は。陳腐な台詞まわし、滅裂な展開、随所に見られる映像の秀逸さを覆い隠して余りある酷さだった。主人公は何をもって行動しているのかがまったく描かれていない。娯楽なのか、ドラマなのか、物語の真意が何もつかめない展開に苦痛を伴う。
2点(2005-01-24 15:32:01)
20.  CUTIE HONEY キューティーハニー
映画製作において「完璧」という言葉はよく念頭におかれがちなことであるが、実際、映画においてその言葉がそれほど不可欠かというと、そうでもない。ある種の映画にとってはまったく意味を持たない言葉だと思う。そして、この映画はまさにそんな言葉など微塵も意識していない。日本娯楽界きってのスーパーヒロインを描いた今作にとって、何よりも大切なのは作品全体の完成度などではなく、主人公の魅力とそのテンションである。あくまで褒め言葉としてのチープさ満載の佐藤江梨子の演技とその見事なビジュアル(身体)は、まさに原作者永井豪の描き出した漫画世界のキャラクターであった。映画全編に渡って醸し出される突き詰められたチープさに対して、我慢できない人もいるだろうが、それを否定することは、原作を否定することであろう。良いも悪いも原作の世界観を表現して見せたこの映画世界は、充分な評価に値する。
[映画館(邦画)] 7点(2004-06-14 17:08:11)(笑:1票) (良:3票)
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