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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2598
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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221.  君の名は。(2016) 《ネタバレ》 
「独りよがり」な映画である。 普通この言い回しには、多分に否定的な意味が含まれているものだが、新海誠というアニメーション監督が生み出す作品においては、それは必ずしも当てはまらない。 「独りよがり」だからこそ、表すことができる「美学」と「美意識」。それがこの監督の作品の唯一無二の魅力だと思う。  他に類を見ないあまりにも美しいアニメーション表現が、やはり素晴らしかった。 ただ、この監督の過去作には、その“美しさ”が際立つあまり、ただただそれに自己陶酔しているだけに見える作品があったことも否めない。  特に前作「言の葉の庭」は、むせび泣くように降り続ける雨に包まれた街並みが美しい映画ではあったけれど、そこに描き出された物語は、ひたすらに“青臭い”ばかりで、まったく感情移入することが出来なかった。 それは、独善主義的に、自らの美意識を追求する新海誠作品ならではの、孕まざるを得ない“あやうさ”だったようにも思う。 新海誠の名を知らしめた名作「秒速5センチメートル」にも、その“あやうさ”はあった。 そして、今作においてもその側面が無くなったわけではない。 主人公たちの言動はやはり青臭く、ストーリーテリングには都合のいい自己満足感が溢れている。  でも、今作においては、その青臭くて、独りよがりな描写そのものが、何にも代え難いエモーションとして、満ち満ちている。  “星降る夜”という数多の表現作品の中で、“美しきもの”として表されてきたものが孕む圧倒的な神々しさと絶対的な脅威。 それは、美しすぎるものが併せ持つ荘厳さと残酷さの象徴だったように思う。 そして、その美しさと残酷さは、そのまま主人公二人の“若さ”に直結する。 若く、未成熟な彼らは、安直で直情的であまりに危うい。でもだからこそ、何よりも美しくて、エネルギーに溢れている。  その美しいエネルギーは、“流星”のそれを遥かに凌駕し、神にも抗う。 それこそが、この映画が最も描き出したかったことなのだと思える。  「過去」は、どうやったって変えられない。 身近な交通事故から“3.11”のような天変地異に至るまで、ありとあらゆる悲劇を目の当たりにしてきている人々は、そのことをよく知っている。 ただし、その「理」を、強引だろうが、無謀だろうが、ご都合主義的だろうが、人物の“感情の力”一つだけで時に覆してしまえることも、「映画」に許されたマジックだ。と、思う。  世界が終わるその間際だろうと、ついに果たせた焦がれた人との邂逅においては、状況を忘れて、その人と話し触れ合うことだけに没頭する。 「そんなことをしている場合か」という非難は、あまりに無意味だ。 若者たちのその無垢な「感情」と「行動」こそが、世界を救う唯一の「方法」だと、この映画は伝えているのだから。   繰り返しになるが、独りよがりで、青臭い映画であることは間違いない。 この種のストーリーを繰り広げるのであれば、辻褄が合わない点もあまりに多過ぎたと思う。 これだけ素晴らしい作品なのだから、ディティール面でもう少し他者の介入があったならば、もっと絶対的な名作になっていたのでは。と、思わなくはない。 けれど、思い直す。 この肯定と否定が渦巻く不完全さこそが、この作品が表現することの価値なのだろう。 若い二人が、町よりも、世界よりも、何よりも先ず「君」のことを思って、闇雲でもなんでも全力で何かに向かって走る。 そのエモーションに勝るものなど、実際無いのかもしれない。  恐らく、いやほぼ確定的に、この作品の社会現象的な大ヒットに伴って、新海誠監督の次作には、更に潤沢な環境と引き換えに、ありとあらゆる制限としがらみが生まれることだろう。 その時、この“独りよがり”なアニメーション監督が、一体どのようにして、どのような作品を生み出すのか。 今から、不安と期待が入り交じる。
[映画館(邦画)] 8点(2016-09-14 10:28:21)(良:1票)
222.  陸軍中野学校
市川雷蔵演じる主人公の渇いた物腰が、この映画が醸し出す空気感のすべてを体現している。 その様は、とても整然として美しい反面、おぞましさと狂気がふいに顔を見せる。 この男は一体何を考えているのか。 ストーリーの進展と共にそれは絞り込まれ明らかになってくる筈なのに、クライマックスに突き進むほどに、彼の心情は靄がかかるように見えなくなるようだった。 それは即ち、主人公・三好次郎もとい椎名次郎が、本物のスパイに成った表れだったのかもしれない。 スパイ・椎名次郎は、僅かに残っていた愛する者への情を、使命という名の非情で闇の中に埋め込み、世界の混沌へと歩み出していった。  実在したスパイ養成所「陸軍中野学校」の実情を描いたこの50年前の映画は、決して一筋縄ではいかない娯楽性と狂気性が入りじ混じっている。 描き出される時代と舞台に共鳴するように、この映画そものものが非常に混沌としている。 ただし、混沌としてはいるが、難解なわけではない。映画としては、娯楽作品としての立ち位置をきちんとキープしている。 それはまさしく、往年の日本映画界の底の深さであり、ただ凄い。  美しき能面のような主人公が、この先どのような“表情”を使い分けて、スパイという生き方を全うしていくのか。 そして、彼が手繰り寄せるのは、世界の平和か、それとも更なる混沌か。 この後のシリーズ作品を観ていくのが、楽しみでもあり、恐ろしくもある。
[CS・衛星(邦画)] 8点(2016-05-05 23:09:13)(良:1票)
223.  バクマン。
「漫画を描きたい」という衝動に駆られ、若者たちは無意識に雄叫びをあげ、思わず走り出す。  漫画に限らず、一度でも自分自身の内なるものから“何かを生み出したい!”という思いを抱いた経験がある者にとって、この作品の主人公たちの姿は、どうしたって心を揺さぶられる。 そしてその“舞台”が、日本中の少年の心を掴み続けてきた「週刊少年ジャンプ」の誌面上である。 想像よりもずっと熱い青春とプロフェッショナルの狭間の群像に対して、あたかもジャンプを彩ってきた漫画を読むように釘付けになった。  この作品が、どれほど実際の漫画制作の現場のリアリティに迫っているのか、もしくは乖離しているのかは分からない。 けれど、漫画家や編集者たちが醸し出す漫画に対する熱量そのものは、真に迫っていると思えたし、そうだと信じたい。 正直なところ、「また人気漫画の安易な実写化か」と高をくくっていた部分があったのだけれど、それは完全に侮りだった。 今作は、青春映画の新たな傑作と言って間違いないし、数ある漫画原作の映画化の中でも屈指の作品だと言って過言ではないとお思える。  この映画化を成功に導いたのは、やはり一にも二にも大根仁監督の“力”によるところが大きいと思う。 大根仁監督作品を観るのはこれが初めてだったが、初めて彼の監督作を観て、この人の作品が話題になり続けている意味が一発で分かった気がする。 日本映画には珍しい発想力と、既成概念に囚われた表現方法。見るからに自由な表現力こそが、この監督の持ち味であり、最大の魅力なのだろう。  漫画制作というソフト面でもハード面でも内向的にならざるを得ない世界観を映像化することは、非常に困難だったはずだ。 並の映画監督であれば、ただ原作漫画をなぞらえただけの映画として見応えのないものに仕上がっていたに違いない。  しばしば「戦場」と表現されることも多い漫画制作の現場は、文字通りの“バトルシーン”で映し出され、主人公たちが描いている漫画の世界観をもイメージさせる臨場感を生んでいた。 また二次元表現である異常、必然的に平面的にならざるをえない「漫画」そのものが生み出される様は、まさかのプロジェクションマッピングを駆使して立体的に、躍動的に描き出された。 ラストシーンでの黒板アートづかいも含めて、肝である「漫画」が描き出される瞬間そのものが非常にエモーショナルに映像表現されたことは、この映画の勝因の一つであり、大根仁監督のなせる業だったのだろうと思う。  その他にも、“緋村剣心VS瀬田宗次郎”戦の記憶も新しい佐藤健+神木隆之介の主演コンビの相性の良さだったり、小松菜奈のミニスカートという大正義!もといある種超越した美しさだったり、サカナクションの楽曲の絶妙なマッチングだったり、みんな大好き山田孝之の相変わらずの万能性だったり、と、映画を彩る一つ一つの要素が、幸福に融合しており、力量のある監督ならではの支配力の高さを感じる。  極めつけはエンドクレジット。あのエンドクレジットは正直ずるい。 週刊少年ジャンプという漫画文化に対しての絶大なリスペクトとともに生み出されたのであろうエンドクレジットは、ずるくて、ユニークで、ステキすぎる。  “友情・努力・勝利”という週刊少年少年ジャンプの絶対的テーマを経て、主人公の若き漫画家たちは一つの結末を迎える。 その少し切なくもあり、同時にそれから先の希望に溢れてもいるラストシーンも、実に“ジャンプ”らしい。 彼らが生み出したヒロインは、最終コマで「ずっと待ってる」と微笑む。  ちくしょう。良いじゃねえか。 これはまさしく、現代版「まんが道」だ。
[ブルーレイ(邦画)] 8点(2016-04-29 20:59:46)
224.  永遠の0
「私たちだけが特別なのではない」 映画のラスト、夏八木勲演じる主人公の祖父が秘めた真実を語り終えた後にそう付け加える。  特攻の美化だ、右傾化だなんだと、原作者の人間性も手伝って賛否の激しい作品であるが、結局この物語が最も伝えてくることは、その夏八木勲の台詞に込められていると思う。  軍人も、民間人も含めて、激動の時代を生きたこの国の総ての人たちが、悲しみも、怒りもひっくるめた「物語」を秘めて、その後の時代を何事もなかったように、耐え、忍んで生きてきたという事実。 この映画で綴られる物語はもちろんフィクションであるが、あの時代を生き、命を継いだ人たちがいたことは紛れもない事実であり、そのそれぞれの物語に対して否定も肯定もないと思う。  「戦争」においては、正義も不義もないことと同様に、それに関わった人間の行為においても、善悪の判別をつけることなど出来ない。 この物語において、生存者の“証言”によって異なる人物像が伝えられるくだりは、そのことをよく表している。  「戦争」は否定されるべきものだと思う。 しかし、ただただ一方的に偏った意見を聞き入れ、そのまま否定することも、安直で、それもまた危険なことだと思う。  あの時代を生き抜き、命を継いでくれた人たちそれぞれが語る言葉の意味を、今の時代の僕たちは今一度知り、考えていかなければならないのだと思う。   原作の時点で賛否の激しい作品ではあったが、個人的にはそれほど偏った思想を感じることはなく、むしろ生存者の証言という要素を軸にした中立的な物語だと思った。また戦争という悲しみを孕んだ物語ではあるが、構成として娯楽性の高い作品だとも思った。 「証言」を軸にした物語構成は、人気バラエティ番組「探偵ナイトスクープ」を手がけた放送作家らしい作品だとも思う。  山崎貴監督は、彼自身の最大の武器であるVFXを存分に活かして、このベストセラー作品の映画化を成功させている。 主題ともいえる“零戦”が飛び交う交戦シーンの迫力とクオリティーの高さは、間違いなく国内最高レベルであり、この作品に相応しい映像としての説得力を備えられていた。 それは、凡庸なドラマパートの演出力を補って余りある総合的な演出効果だったと思う。  キャストにおいては、“証言者”である老人たちを演じたベテラン俳優陣が皆さすがの味わい深い演技を見せてくれる。 ただここはやはり、主演俳優である岡田准一の熱演を特筆したい。 人々の記憶の中にのみ残るある意味人物像が定まらないキャラクターを、熱く、真摯に演じきって見せたと思う。 この俳優には、所属事務所の枠を越えて、今後もっと幅広い役柄を演じていってほしいと思う。   ついに特攻に赴く時、エンジンの不調を察知した主人公は一寸安堵のような表情を浮かべる。 やはり彼は、どんな心情であっても、どんなに無様であったとしても、最後まで生き残る道を模索していたのだと思う。  戦後70年。実際に、生きて、残った命の価値と、彼らが継いでくれた命の意味を、改めてよく考えていきたい。
[CS・衛星(邦画)] 8点(2015-08-16 20:02:10)
225.  黒薔薇の館
この現世に「魔女」というものが存在するのならば、それは丸山明宏(美輪明宏)のことだと思う。 ちょうど10年前に、今作と同じく深作欣二監督作、丸山明宏主演の「黒蜥蜴」を初めて観た時と同様に、そう感じた。  インモラルなオープニングクレジットを皮切りに、その唯一無二の「存在」に圧倒され、陶酔してしまった。 それはまさに、「性別」という“脆い”概念を超越した「魔女」そのものだ。  勿論、日本には過去にも現在にも優れた「女優」は数多いと思うが、他のどの「女優」がこの映画の主人公の「女」を演じても、丸山明宏を超える存在感を出すことは出来まいと確信してしまう。 それくらいにこの映画と主人公「竜子」というキャラクターは、丸山明宏のためのものだったと言え、彼がいなければ作品自体が存在すらしなかっただろうと思える。 実際、「竜子」という女が、謎に満ち溢れながらも数多の富豪・文化人を虜にしていく様は、年齢・性別不詳で売りだした彼自身のデビュー当時の様そのものだ。  謎の女「竜子」に群がる男どもの面々がこれまた濃い。 男たちが、女に翻弄され人生を崩壊させていく様は、滑稽で禍々しいけれど、あまりに非現実的なこの「女」の妖艶さの前には、それも致し方ないと思えてしまう。 小沢栄太郎、西村晃ら熟練者の存在感は言わずもがなだが、やはりその群がる男どもの中で最も印象的だったのは、若き田村正和だ。  当時二十代半ばの田村正和は、あまりに瑞々しくて一寸誰か分からなかったけれど、“発声”した瞬間に彼と分かる喋り方は、今と全く変わらない。 映画の終盤は、丸山明宏演じる「竜子」と田村正和演じる「亘」との愛の逃避行へと突き進んでいくわけだが、両者の独特の口調が絶妙に混ざり合い、会話そのものが淫靡でクラクラしそうだった。  ストーリー自体は至ってシンプルでむしろ凡庸と言える。しかし、そこに息づくあまりに稀有な「存在」によって、唯一無二な映画に成っている。  今作もソフト化されていないらしい。「黒蜥蜴」と同様に早急にソフト化を求む。
[CS・衛星(邦画)] 8点(2014-12-24 23:25:00)
226.  脳男
日本の大作映画特有の不細工なエンターテイメントなんだろうとスルーを決め込んでいたのだが、ドハマリ中の“二階堂ふみ”目当てに鑑賞。 粗や難点は多いけれど、それを補って余りある娯楽性に溢れいていた。江戸川乱歩賞受賞作が原作らしく、想像以上にエキセントリックな物語の世界観は見応えがあった。(二階堂ふみの畜生ぶりも、想像以上にエキセントリックだった!)  原作は未読だが、映画化にあたり生み出されたオリジナルのキャラクター設定が効いていたと思う。 悪役の性別を男性から女性に変えるなんて、普通は失敗しがちなんだけれど、今作に限ってはそれが功を奏し、主人公である“脳男”との合わせ鏡としての対比が際立っていた。  そして何と言っても、主演の生田斗真のパフォーマンスは素晴らしかった。 絞り込まれた肉体と、無機質且つ美しい無表情は、“脳男”という「異質」を表現するに相応しく、彼以上の適役は居なかったろうと思わせる。 一瞬の微笑から再び深い無表情へと移り変わるラストカットは見事だった。  全体的なテンポの悪さと少々あざと過ぎる演出には改善の余地があるとは思うが、メリハリの効いたアクションシーンと、思わず目を背けたくなる程ハードな残酷描写には、日本映画らしからぬ迫力があった。  というわけで、国内の娯楽大作映画としては近年で随一の出来映えと言っても過言ではなく、大いに楽しめたことは間違いない。  個人的には、二階堂ふみと太田莉菜の“糸引きディープキス”が見られただけでも、この映画の価値は揺るがない!
[CS・衛星(邦画)] 8点(2014-08-15 00:50:15)(良:2票)
227.  月曜日のユカ
主演女優のとろけるように柔らかで、愛らしく淫靡な唇に終始釘付けになる。  きっと誰が観ても明らかだろうけれど、この映画の見どころは女優「加賀まりこ」そのものだ。 ストーリーなんて追わなくても構わない。ただひたすらにこの女優の神がかり的な(いや、悪魔的なというべきか)可愛らしさに狂うべき作品だと思う。  “小悪魔”なんて形容はよく使われるけれど、この映画を観た後では、その形容はこの時代の加賀まりこのみに与えられるべきものだとすら思える。 そう妄信的に断言出来る程に、主人公ユカのすべての仕草が、恐ろしくなるくらいに可愛らしく、惹き付けられる。  一種のアイドル映画と言えなくもないが、その範疇にはとてもおさまり切らないインモラルな空気感は唯一無二。 観客が何を求めるかを見通すかのように、ひたすらに加賀まりこ演じるユカの表情のみを映し続けるカメラワークも見事だ。 何分間もの間、表情のアップだけでシーンを成立させてしまう“見映え”には、美貌に対しての欲情を凌駕して、ただただ惚けてしまう。  もしウッディ・アレンがこの時代の加賀まりこに出会っていたならば、きっと“ミューズ”の一人として、彼女の映画を撮り続けたことだろう。という妄想をして、思わずニヤリとした。  余談だが、加藤武が初老のパトロン役で出演しているのだが、この人この時代にそんな歳の俳優だっけ?と違和感を覚えていた。ちょっと確認してみると、当時35歳。おい、老け過ぎだろ。
[インターネット(字幕)] 8点(2014-07-06 13:05:43)
228.  ワイルド・スピード/EURO MISSION 《ネタバレ》 
この娯楽映画シリーズのファンとしては、相応しいタイミングでこの最新作を見ることができたと思う。それは、とても嬉しいことでもあり、あまりにも悲しいことでもあった。  今年の夏に、シリーズ中で唯一観られていなかった「3」見たばかりだった。 シリーズのファンなら周知の通り、“東京”を舞台に描かれる「3」は、シリーズの番外編的なニュアンスが強く、レギュラーキャストは殆ど登場しない。 そして、その中で唯一主要キャストとして登場する“ハン”の悲劇的な末路が描かれている。「3」を観た段階では、なぜ彼が独り東京に流れ着き、ヤクザ相手の危険な仕事に手を染めているのかの説明もなく理解し難い部分があった。  が、それを裏打ちするエピソードが、この最新作では描かれている。  “或る人物”の突然の登場に驚愕するエンドクレジット後のシーンからも明らかな通り、今作は、いささか変則的に繋がっていた「3」をシリーズの本流に結びつけ、次作に向けての新展開への起点となるシリーズの中でも非常に重要な作品に仕上がっていた。  シリーズも6作目となり、正直「一見さんお断り」な状況になっていることは否めないけれど、「EURO MISSION」という軽薄な邦題にミスリードされて、劇場鑑賞を見送ってしまったことをファンとしては甚だ悔しく思う。  ハン&ジゼルの悲しい運命に対して、想定外に胸を締め付けられたことは、この娯楽映画シリーズが少しずつ培ってきた“チーム感”の結晶とも言え、ますますド派手になっているアクションシーン以上の付加価値だったと思う。  あと、タイミング的には、「エージェント・マロリー」も今年観たばかりだったので、ジーナ・カラーノのナイスなキャスティングも嬉しかった。復活したミシェル・ロドリゲス嬢との“肉弾戦”は白眉だった。   そして、2013年11月30日、ポール・ウォーカーの突然の訃報。 そのあまりに悲しくショッキングな出来事が、この映画シリーズに与える影響は当然計り知れない。 映画スターの死が、その人の周囲の人間は勿論のこと、世界中の映画ファンに悲しみを与えるということを改めて思い知った。  心より冥福を祈りたい。 ただ、叶うことなら、撮影中だったシリーズ最新作「7」の完成を待って、彼の最期の姿を心に焼きつけたい。
[ブルーレイ(字幕)] 8点(2013-12-23 14:59:00)(良:1票)
229.  ふがいない僕は空を見た
見るともなく空を見ながら、川沿いを自転車で行く主人公の高校生を見て、自分自身の高校生の頃を思い出した。同じように、何となく空を見上げて、自転車で川沿いの家路を辿った。 勿論、僕は、コスプレ好きの人妻と不倫をしていたわけでもないし、文字通りの飢えを感じるほど貧困に窮したわけでもなく、ただただ普通の男子高校生だった。 それでも、悩みやそれに伴う鬱積は確実にあって、それらに対して何の解決策も持たない自分自身に、悲観しつつ、呆れつつ、日々を過ごした。  俯瞰して見れば、この映画の主人公の高校生は、結局のところ、何一つ自分で解決したわけではない。 すべては彼に関わる“大人”が、決断し、導き、見守り、彼を生かしたのだ。 当の本人は、傷心と攻撃にただただ打ちひしがれ、閉じこもり、幸福にもまわりの人間に助けられて、再び立ち上がることが出来たに過ぎない。 そして、ふと空を見上げて、なんだか成長したような気分になっているに過ぎないのだ。   ……でもね。それでいいのだと、強く思う。   この映画で描かれるようなちょっとヘビーな境遇であろうとなかろうと、16~17歳の高校生に出来得ることなどたかが知れている。 むしろ、「何も出来ない」と言ってしまっていい。  唯一出来ることがあるとすれば、それは、主人公の母親が言う通りにただ「生きる」ということだけだ。 ささやかでどうでもいいことの方が多いのだろうけれど、絶え間ない悩みと鬱積に対して、ただひたらすらにうじうじともがき苦しみ、時間の経過とまわりの人間の助力によってそれらが自然に雲散霧消するのを待つ。  そして、空でも見つつ、自分で自分を慰めて、その先を生きていく。それでいいのだ。  この映画の作り手は、「現実」に対してドライな観点を終始保ちつつ、同時に普遍的な慈愛をもって、決して劇的ではない人間模様を落ち着いて描いていると思った。   すべての人間が生きていいく上で必ず意識する「生」と「性」。 それらは常に対のものとして、人生に喜びと苦しみを平等に与える。 その美しさとおぞましさを、何の変哲も無い普通の人々の群像の中で繊細に描き出してみせたこの映画の在り方は、とても正しい。 
[DVD(邦画)] 8点(2013-11-05 23:59:20)(良:1票)
230.  悪の教典 《ネタバレ》 
生まれながらのサイコパスである英語教師が、ふとしたきっかけで本性を解放させ、担任するクラスの高校生たちを片っ端からショットガンで撃ち殺していくという、不謹慎極まりない映画である。 某トップアイドルのようにこの映画を観て激怒する人も多いのだろうけれど、それと同等以上に、この映画の「娯楽性」を堪能してしまう人も多いだろうと思う。  はじめのうちは、聖人君子の仮面を被った殺人鬼の教師が、生徒たちを何のためらいもなく、あたかも出席を取るように殺していく様に当然激しいおぞましさと嫌悪感を覚える。 しかし、彼の“鼻歌”に乗せられるように、次第にそのおぞましさがクセになり、一方的な殺戮をどこか楽しんでしまっている自分に気付く。 瞬間、自己嫌悪に陥り、「不謹慎」という言葉を持ち出してその感情を抑えようとするけれど、そんな言葉など意味がないという結論に行き着く。  非常にショッキングな映画であることは間違いないけれど、この映画のスタンスは見紛うことなくエンターテイメントであり、何の問題提起があるわけでもなく、ただただ主人公“ハスミン”の「狂気」を楽しむしかない映画なのだと思う。 主人公の人間性を疑うなんてことは完全にナンセンスなことで、ジェイソンやフレディ・クルーガーら名だたるホラー映画スターと同様に、“ハスミン”という新しい“モンスター”のキャラクターと恐怖を楽しむほかない。  というわけで、これまでの日本映画にはありそうでなかった、高い娯楽性を備えたバイオレンスホラー映画に仕上がっている。 この手の映画を作り出すにあたっては、国内には三池崇史以上の人材がいないことは明らかで、題材に相応しいバイオレンス描写を的確に導き出していると思う。  そして、何と言ってもこの映画の質を一段も二段も上積みしている要因は、伊藤英明の存在に他ならない。 キャラクター性の強い殺人鬼を嬉々として演じ上げた様は見事だったと言うしかない。 表裏のない真っすぐなキャラクターを演じることが多いこの俳優に、完全なる「裏」を演じさせてみて、凄まじい存在感を引き出したことは、監督にとっても俳優にとっても幸福なことだったと思う。  ラストは壮絶な死に様が見られるのかと思いきや……そうですかそうですか。 それじゃあ、更に暴走に拍車がかかった“ハスミン”の「二時限目」を期待しております。
[ブルーレイ(邦画)] 8点(2013-11-03 01:17:54)(良:1票)
231.  凶悪
恐ろしい映画だったと思う。  自分はこの映画に登場する“彼ら”ではなく、“彼ら”に関わった人間でもないという無意識の立ち位置による屈折した「愉悦」を知らぬ間に敷き詰め、この映画に「娯楽」を感じている自分の意識に気付いたとき、この映画の「凶悪」というタイトルの真意を垣間見た気がし、ゾッとした。  描かれる事件と犯罪が「真実」であることを念頭において観ているわけだから、映し出される凄惨な描写に対して「痛み」や「悲しみ」を感じなければならないという“建前”を意識しているにも関わらず、ピエール瀧(=須藤)の爆発的な残虐性に何故か高揚し、リリー・フランキー(=先生)のおぞましいまでの狂気に引き込まれてしまう。 実在の被害者に対して後ろめたい気持ちを多分に感じつつも、描きつけられる「凶悪」が次に何を見せるのか、どこか期待をしてしまい、その都度「不謹慎」という言葉をぬぐい去ることに苦労した。  「あなた こんな狂った事件追っかけて 楽しかったんでしょう?」  終盤、主人公の妻のこの台詞により自分の中で見え隠れしていた感情が突如丸裸にされる。 見て見ぬ振りをしていた自分自身の深層心理がふいに明るみに放り出されたような気がして、主人公と同様に「やめろ!」と叫びたくなった。  「映画」である以上、いくらノンフィクションが原作だとはいえ、脚色されている部分は大いにあるだろう。 ピエール瀧が度々発する「ぶっこんじゃお」というあまりに印象的な台詞や、リリー・フランキーの脱帽するしかない「怪演」など、映画的な面白さが加味されている要素は多く、それはまさにこの作品が映画として優れている点でもあると思う。 俳優たちの表現はことごとく素晴らしい。一つ一つのシーンも綿密な計算と明確な意思をもって構築されており、見事だったと思う。  ただ敢えて苦言を呈するならば、もう少し「編集」の巧さがあれば、同様の深いテーマを孕んだまま、もっと“面白い”映画に仕上がっていたようにも思う。 もし同じ題材で、というかこの監督と俳優が撮った同じ映像素材を、世界的な映画巧者が編集したならば、例えばアカデミー賞をも席巻するような名実ともに質の高い映画になりそうな気さえする。  ま、そんなのは一映画ファンの身勝手な妄想であり、実際どうでもいいことだ。 こういう本当の意味で骨太な映画が、もっと沢山国内で製作されることを願いたい。
[映画館(邦画)] 8点(2013-10-26 17:12:34)
232.  Wの悲劇
流行の中で生まれては消える“アイドル”という“生き方”の数だけ、アイドル映画というものは存在する。 “演じる”ということにおいては素人に毛が生えた程度の人間が主演を張るわけだから、当然駄作も多い。 しかし、すべてのアイドル映画は、アイドルである彼女たち彼らたちの生き様そのものであり、その存在のみで充分過ぎる価値がある。 そして、中には今作のような紛れもない傑作も確実にあって、その価値は、アイドルファン、映画ファンはもちろん、その時代と大衆にとって計り知れないものになると思う。  或るトップ劇団で「女優」として生きる女たちの間で巻き起こるスキャンダルを、現実と舞台劇の境界を巧みに交えて描く今作。 名だたるキャスト陣がそれぞれにおいて印象的な存在感を見せる。 が、この作品が紛れもない“アイドル映画”である以上、その映画世界を支配するのは唯一人。 「薬師丸ひろ子」という存在に他ならない。  今作で演じた主人公と同様に、この年に二十歳になった稀代のアイドルにとって、この映画は、最後のアイドル映画と言え、アイドルそのものからの「卒業」を意味していると思う。  そのことを如実に表すかのように、この映画は、アイドル薬師丸ひろ子の「処女喪失」から始まる。 そこから初体験の夜を経て、朝もやの帰路につく冒頭のシーンがとても印象的だ。 何気ないオープニングシーンとして描かれてはいるが、そこには幾ばくかの満足感を大いに超える喪失感に溢れていて、薬師丸ひろ子が「アイドル」というレッテルを捨て去り、「女優」として生きていく「覚悟」が満ちている。  それは、主人公自身が女優を目指す道程の「覚悟」と完全にリンクし、明らかなフィクションの世界が、“薬師丸ひろ子”という存在を通じてリアルに結びついてくる。 更には、映画世界内で描かれる現実と舞台劇もがオーバーラップし、二層、三層の世界が陽炎のように重なり合って行く。  僕自身は、薬師丸ひろ子という稀代のアイドルにリアルタイムで熱狂した世代ではなけれど、時代を席巻したアイドルのフィナーレを飾るに相応しい、巧みで情熱に溢れた映画であることは間違いない。  もちろん、「角川」のアイドル映画らしく、時代と剛胆さに伴う“ほころび”は多い。 しかし、その“ほころび”こそが、アイドル映画に絶対不可欠な要素であり、完璧ではないからこそ、完璧な映画だと言えると思う。
[インターネット(字幕)] 8点(2013-10-11 17:43:36)
233.  ヴァンパイア(2011) 《ネタバレ》 
「これはあなたの夢?」  “ヴァンパイア”の、おそらくは最初の“献身者”となった女の最期の一言。  この映画の主人公である“ヴァンパイア”の「彼」にとって、“血液を啜る”という行為の意味は、果たして何だったのだろうか。 心の隙間を埋めるための一種の趣向だったのか、行き場を失った孤独を癒す“温もり”を感じるための唯一の手段だったのか。  結果として、繊細で優しい殺人鬼と化した主人公の得た結末は、幸福だったのか、不幸だったのか。  ラスト、己の業が明るみに曝された主人公は、思わず逃避に駆られる。 どこまでも逃げようとするけれど、その足は次第に宙空に浮き、無情にから回る。  それはおそらく、彼の深淵なる“夢”の終わりの時だったのだと思う。  孤独の淵に立たされた主人公が、妄信的に辿り着いた“ヴァンパイア”という生き方。 物語の吸血鬼のように、己の存在が「永遠」でないことは、他の誰よりも本人がよく知っていたことだろう。  「血は命そのものだ」と、“ヴァンパイア”は語る。 「血」を追い求めた彼の姿は、「生」を渇望する弱々しくも必死な、人間という生物そのものの本質的な在り方に見えた。   「花とアリス」以来8年ぶりとなる岩井俊二監督の長編映画。勿論、映画館で鑑賞したかったけれど、地方都市住まいの悲しさにより叶わず……。 とうにレンタル開始はされていたけれど、万全のタイミングを探るべく、日々が過ぎ去った。結局、劇場公開から10ヶ月近く経過した今ようやく鑑賞。   淡々と、空気を呑み込むような、あまりに美しい映像世界。 独創的な世界観は、人によっては独善的で独りよがりに映るのかもしれない。  でも、僕にとってそれは、十代後半で初めて触れ、心の底から愛した映画世界そのものだった。
[ブルーレイ(字幕)] 8点(2013-06-30 02:04:14)
234.  夢売るふたり
どこにでもいる普通の夫婦。そんな彼らの両の瞳の黒が、展開と共にじわじわと深まっていく。 映画は、序盤コメディタッチで描かれるが、ふいに垣間見えるその瞳の深い黒色が、安易な笑いを拒絶するようだった。 誰が見てもおしどり夫婦だった二人が、突然訪れた一つの“不幸”により、そのままの関係性を維持出来なくなってしまう。 それは決して劇的なことではなくて、世の中のどの夫婦にも内包されている普遍的な危険性の表れのように思えた。  自分自身、結婚をして3年半になるが、つくづく「夫婦」という関係性が一つの形に定まり続けるということはないと感じる。 結婚は決して“ゴールイン”などではなく、あらゆる試練の“スタート”だ。 その試練が幸福なものになるか、不幸なものになるか。そこには、本人たちの多大な努力と、それに匹敵するくらい大きな「運」が必要なのだと思う。  映画の中でこの夫婦が営む料理屋は、結果的にどの店も客入りが良い。 それは、この夫婦が本当に相性が良くて、その関係性に相応しい男女だったということの表れに他ならない。 でも、ほんの少しの行き違いによって、彼らは互いの相性の良さを信じ切れなかった。 それは本当に些細なタイミングのずれに過ぎなかった筈なのに、その小さなずれが大きな悲劇を生んでしまった。  ただし、だ。先に述べたように夫婦という関係性が続く以上は、その形に終わりは無い。 映画のラストで示される二人の表情には、悲劇のその先で、それでも離れ切れない夫婦の悲哀が滲み出ていて、そこには一抹の救いがあったように思う。   ストーリー展開においては強引な部分があることは否めない。しかし、それを補って余りある役者の演技力が随所に光っている。 主演の松たか子と阿部サダヲは、「普通」の夫婦の中にこそある「危うさ」を見事過ぎる程に体現していたと思う。特に、松たか子の体と心を張った演技は、彼女が女優としてまた一つ高みに上がったことを確信させた。 また豪華なキャスト陣の中にあって、風俗嬢を演じた安藤玉恵、女子ウエイトリフティング選手を演じた江原由夏、この決して有名ではない二人の女優の“実在感”が素晴らしかった。  そして、役者の印象的な演技を引き出した上で、西川美和監督は細やかな演出で纏め上げている。 長編映画4作目にして、日本映画界におけるこの女性監督の存在感は不動のものとなったと言える。
[ブルーレイ(邦画)] 8点(2013-06-26 00:15:51)
235.  網走番外地(1965)
最新作での映画復帰で改めてその存在感が際立っている俳優「高倉健」。 そんな高倉健の映画が観たくなり、タイトルの認知はあったけど全く観たことがなかった「網走番外地」シリーズの第一作目の鑑賞に至った。  高倉健の主演映画は今まで何作か観てきたが、今作の高倉健は他の数多の作品と比べ「異色」と言えるのではないか。 いや「異色」というのはやや語弊があるかもしれない。もっと簡単な言い方をするならば、明らかに「若い」高倉健が観られる映画だと言っていい。  この映画の高倉健は、生来の優しい性根を垣間見せつつも、荒々しいまでにぶっきらぼうで、プライドが高く、若さ故の“愚かさ”を幾重にも積み重ねる。丹波哲郎じゃなくても、彼の言動に対しては思わず「大馬鹿!」と叫びたくなる。 現在に至るまでの主演映画の多くで、高倉健演じる主人公は、過去に何かしらの過ちや後悔を携えて生きている場合が多い。 そんな“彼ら”の若かりし日の姿こそ、この映画の高倉健そのものだと言われると、妙にしっくりとくる。  そんなことを考えてみると、映画俳優としてのフィルモグラフィー自体が、“高倉健”という日本が誇る俳優の“生き様”そのものに見えてくる。 長年に渡って活躍する俳優にとってフィルモグラフィーが人生の系譜であることは、ある意味当然のことかもしれない。しかし、高倉健ほどそこに人間としての厚みが備わり、現実と非現実の「境界」の見極めが困難な程にリンクしている俳優は居ないだろうと思う。  と、思わず映画の内容そっちのけで「高倉健」という俳優の存在感ばかりに目がいき、その名前を連呼せずにはいられない。 この映画は、稀代の映画俳優の「若さ」を剛胆に描きとった価値ある意欲作だ。
[DVD(邦画)] 8点(2012-11-06 00:27:04)
236.  アウトレイジ ビヨンド 《ネタバレ》 
冒頭から小日向文世演じる悪徳マル暴刑事が小蠅のように方々に飛び回っては、「ケジメ、ケジメ」と五月蝿い。 その描写が象徴するように、この続編作品は前作「アウトレイジ」から持ち越された「ケジメ」をひたすらに取ったり、取らされたりする映画だ。 前作において、”甘い汁”を吸った者、“煮え湯”を呑まされた者、各々が再び入り交じり、血で血を洗っていく。 その仰々しいまでの“愚かしさ”が、前作同様に極上のエンターテイメントとして画面一杯に映し出され、きっちりと締めくくられた。  非常に満足度は高い映画であることは間違いない。 それを前提にして敢えて言うならば、前作程の“アク”の強さはなかったかなと思う。  「全員悪人」と銘打たれて揃った面々が入り乱れ、一体誰がどうなるのかとストーリーの顛末自体に見通しがきかない面白さに溢れていた前作に対し、今作ではわりと予定調和的に各キャラクターに対しての“おとしまえ”がつけられていくため、ヒリヒリするような緊迫感が薄れていた。  また、前作では、ビートたけし演じる「大友」がこの映画世界の一応の主人公ではあったが、それぞれの思惑と野心を持った極道たちの群像劇色が強く、それがこの映画世界独特の面白味だったと思う。 しかし、今作では「大友」がいかにもな主人公然とした立ち位置で描かれるため、それ以外のキャラクターの印象が弱まってしまった。 同時に、その主人公自体も前作の流れを経て、表面的な荒々しさが薄れた描写が多く、狙い通りではあるだろうが全体的な迫力不足に繋がってしまっていることは否めない。  新たに登場する西田敏行ら“関西勢”は良い味を出していたけれど、"切った張った”の中心には絡んでこないので、トータル的なインパクトに欠けてしまったと思う。  と、前作とそのまま比較してしまうと、どうしても物足りなさが先行しがちな感想が出てきてしまうが、このジャンルの娯楽映画として水準を大きく超えている映画であることは言うまでもない。  五月蝿い小蠅に対して、望み通りきっちりと「ケジメ」をつけて締めくくられたラストカットに、高揚感は極まった。
[映画館(邦画)] 8点(2012-10-06 16:19:19)(良:3票)
237.  大奥(2010)
驚いた。まさかこんなに“ちゃんとした映画”になっているとは思っていなかった。  「二宮和也主演はないだろう」という違和感が、実際に鑑賞に至るまでずうっとつきまとっていた。 このアイドル俳優の演技力を認めつつも、原作漫画とのビジュアルのあまりのかけ離れ具合を受け付けられず、人気取りだけを見込んだ安直なキャスティングだと思わざるを得なかった。 結果として、「映画化」を熱望していた原作ファンにも関わらず、相反する失望を恐れて劇場に足を運ぶことはなく、今の今までスルーしてきた。 詰まる所、非常に「後悔」している。予想通りに一般の評価は極めて低いようだが、はっきり言って見事な「漫画の映画化」だ。原作ファンだからこそ自信を持ってそう言いたい。  よしながふみが描き出す原作漫画の画風に対して、人物のビジュアルが乖離してしまっていることは確かだ。 特に主人公の「水野」はもっと分かりやすく美男秀麗であるべきだとは思う。はっきり言ってしまえば、二宮くんは明らかに“チビ”すぎる……。 しかし、そういった表面的なキャラクター描写については、わりと早い段階でどうでも良くなった。 主演の二宮和也をはじめ、俳優たちの演技がそれぞれ与えられたキャラクターに対して的を得ており、“正しい”演技を見せてくれるからだ。  「吉宗」役の柴咲コウも大きな不安要素の一つだったけれど、気丈で明晰なこの物語ならではの吉宗像を見事に体現していた。発声や目線に至るまで、細かい演技にまで説得力があったと思う。原作漫画には特に描かれていなかった、城内を“早足”で闊歩する様などは、このキャラクターの決断力を如実に表す良い演出だったと思う。  その他の俳優もパフォーマンスがことごとく良かった。 そして、それぞれのキャラクターにおいてきちっと“見せ場”を作る演出も的確だったと思う。 所々、原作漫画には無いエピソードや細かい描写も付与され、それらが効果的にドラマ性を高めていた。  そもそもが荒唐無稽な設定の上にエグさやタブー的な描写を多分に含んだ物語なので、好き嫌いが大いに分かれる原作である。故にこの映画においても“拒否感”を拭えない人も多いと思う。  が、この映画の方向性は圧倒的に正しい。その意外な真っ当さに対して驚きと喜びを感じずにはいられなかった。
[DVD(邦画)] 8点(2012-10-05 23:12:03)
238.  満員電車
みんなどこかが狂ってる! と、映画全編を通して延々と映し出される密集する雑踏の中で思わず叫びたくなる。 鋭い社会風刺を強烈なブラックユーモアをもって描きつけている「問題作」と言っていい。 1957年当時に、これほどまでに冷ややかなエグさで埋め尽くした映画を描き出した市川崑という映画監督は、やはりとんでもない人物だったのだと思わずにはいられない。  一流大学を卒業しながらも、将来に対する望み薄な展望をドライに割り切り、無表情のまま現代社会の荒波に飛び込んでいく主人公。 映画のタイトルを指し示すように、彼は「日本には我々が希望をもって坐れる席は空いていない 訳もなくはりきらなくては」と冷め切った持論を展開する。  どこに行っても人間が混み合い、すべての人間が杓子定規に生きるしかない明らかに狂った社会。 そのすべてを割り切って生きてきた筈の主人公だが、父親からは母親が狂ったと聞かされ、母親からは父親が狂ったと聞かされ、まわりの同僚たちも何だかどこかが狂っている。 次第に、本当に狂っているのは、社会なのか自分自身なのか分からなくなってくる。  50年以上前の映画でありながら、この作品が映し出す社会の本質とその病理性は、まさに現代のそれに直結するものであり、登場人物たちの妙な言動は可笑しさから次第に恐ろしさとなって観る者に迫ってくる。  主人公は紆余曲折を経て路頭に迷う。ラスト、自ら建てたあまりに粗末な掘建て小屋を強風にさらされながら、主人公はそれでも柱にしがみつき、未来に対する諦観か覚悟が判別のつけづらい感情の中で、生きていかなければならないと宣言する。 その直後には、小学校の入学式に臨む子供たちが、校長から「将来は前途洋々」と訓辞を受けているシーンが映し出され映画は締められる。  いやあ、この皮肉さはもの凄い。
[CS・衛星(邦画)] 8点(2012-07-05 16:19:22)
239.  川の底からこんにちは
映画は、いきなりヒロインが腸内洗浄を行われるシーンから始まる。 少々横柄な女医の問いかけに対して、若干焦点が定まらない黒い瞳で「ふぁい」と返事をするその表現を観た瞬間に、このアイドル上がりの若い女優が、この数年で一気に日本映画界を席巻する存在に成っている理由が理解できた気がした。  この映画の全編を通して発揮されている「満島ひかり」という女優の抜群の存在感には、儚さと美しさ、そしてあらゆる“重さ”に耐える強い人間味が備わっていて、まるで韓国女優のような骨太さを感じた。 ああ、日本にもこういう女優が生まれたんだという新しい光みたいなものを明確に感じたと言っていい。 火を見るよりも明らかだが、このヘンテコリンな映画は、満島ひかりというトピックス的な存在があって初めて成立している。  ヒロインはあらゆる苦境に対していつも「しょうがない」と無表情で言って割り切る。 自分自身のことを鑑みて、“中の下”の女だから“中の下”の人生しか歩めないと、悲しいまでに達観してしまっているのだ。 周りの人間も揃いも揃って馬鹿ばかりだけれど、自分自身が馬鹿なんだから、それも「しょうがない」。  そうやって常に脱力感に溢れ、流れのままに人生を沈み込んでいくヒロインが、ついに川の底まで辿り着き、あたかも川底からすくい上げられる“しじみ”の如く、川面に顔を出す。 そうまさに「川の底からこんにちは」なのだ。  その様は決して劇的なことなどではなく、何の根拠もないただの“開き直り”ではあるけれど、今までただただ受け身としての「しょうがない」だった彼女が、“頑張る”と決めたのだから「しょうがない」とささやかな変化を見せる姿は、不思議な程に勇ましく、高揚感に溢れる。  人生は自分の望む通りにはならない。そんなことずっと前から知っている。 でも、ただ負けてばかりはいられない。だから、頑張るしかしょーがない。 人生など、それでいいのだ。と、ヒロイン同様、安い発泡酒を飲みながら思えた。
[DVD(邦画)] 8点(2012-04-03 13:57:48)(良:2票)
240.  リアリズムの宿
冬風が吹きつける日本の寂れた裏通りを歩いていく冴えない男二人。 “顔見知り”程度の二人の絶妙な関係性が、妙な間と可笑しみを生んでいく。 そこには希望もなければ、絶望もない。“美しくないもの”をきっちり美しくなく描き出す辛辣さと、可笑しさ、それらに裏打ちされたリアリズム。  山下敦弘監督(「リンダ リンダ リンダ」)のこの映画をずうっと観たいと思っていたけれど、地元のレンタル店ではなかなか見つけることが出来ずにいた。 最近になって特に観たくなっていた最大の理由は、尾野真千子が出演しているからだった。 ふと訪れた自宅から遠いレンタル店でようやく今作のパッケージを見つけ、やっと鑑賞に至った。  つげ義春の原作らしく、創造以上に“つかみきれない”感覚は、エンドクレジットが映し出された瞬間に覚えた。 良い映画とも悪い映画とも大別できない浮遊感みたいなものを、観終わってしばらく感じていた。  その浮遊感こそ、この映画が描こうとしたことだと思う。 人の世は、楽しいものなのか、美しいものなのか、素晴らしいものなのか。 大概の場合、その答えは「ノー」と言わざる得ないけれど、それでもふいに訪れるわずかな“光”の“ようなもの”を求めて、ふらふら、ふわふわと多くの人間は生きている。  人も、物も、風景も尽くうらびれているこの映画は、その突き詰められた“うらびれ感”の中で、「それでももうちょっと生きてみるのも悪くない」ということを呟くように伝えてくる。
[DVD(邦画)] 8点(2012-01-16 22:42:37)
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