Menu
 > レビュワー
 > onomichi さんの口コミ一覧。6ページ目
onomichiさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 404
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 55歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

表示切替メニュー
レビュー関連 レビュー表示
レビュー表示(投票数)
その他レビュー表示
その他投稿関連 名セリフ・名シーン・小ネタ表示
キャスト・スタッフ名言表示
あらすじ・プロフィール表示
統計関連 製作国別レビュー統計
年代別レビュー統計
好みチェック 好みが近いレビュワー一覧
好みが近いレビュワーより抜粋したお勧め作品一覧
要望関連 作品新規登録 / 変更 要望表示
人物新規登録 / 変更 要望表示
(登録済)作品新規登録表示
(登録済)人物新規登録表示
予約データ 表示
【製作国 : 日本 抽出】 >> 製作国別レビュー統計
評価順12345678
投稿日付順12345678
変更日付順12345678
>> カレンダー表示
>> 通常表示
101.  川の底からこんにちは
主人公の「頑張る」という言葉が妙に切実に響いたのは、「頑張る」とか「頑張ろう」という言葉自体が最近世間で使われなくなったからかもしれない。一億総うつ社会。敢えて「頑張らない」ことや競争しないことが今や美徳となっているから。みんな「ナンバーワンにならなくてもいい、元々特別なオンリーワン」なのだから。 また、他人に「頑張れ」と言わないこと。それは「頑張れ」という言葉の無責任さや無神経さを自覚してのことだというが、裏を返せば、他人の気持ちに深く踏み込めない、責任を持てない関係性そのものの希薄さを表している。  僕自身は、年がら年中、「頑張る」と言い続けているような気がする。そう言って自分を鼓舞しないとやっていけないので、それは「しょうがない」のだ。とにかく頑張って、家族や会社を守る。人は社会で(ちっぽけでも何でも)責任ある立場を得ると、無根拠でも何でも頑張らないとやっていけないのです。とにかく明日も頑張るので、今日は寝る。それは決めたことだから。それはもうしょうがないから。  満島ひかりは相変わらずうまいなぁと思うのだけど、今回の主人公はちょっと共感しづらい点がところどころにあり。そういう違和感も彼女の魅力なのだけどね。
[DVD(邦画)] 8点(2011-10-10 10:12:12)(良:2票)
102.  寝盗られ宗介 《ネタバレ》 
『寝盗られ宗介』は、つかこうへいの舞台作を若松孝二-原田芳雄のコンビで映画化した1992年の作品です。つか作品はよく知りませんが、映画『寝盗られ宗介』は、やはり主人公が原田芳雄ということで、彼独自のアウトローというイメージが纏わり付きます。中年のアウトロー。そこはかとないアウトロー。アウトローの末路と言えばいいでしょうか。とはいえ、別に拳銃を隠し持っている元テロリストというわけではなく、ただのドサ回り一座の座長にすぎないわけで、その存在はアウトローにしてはかなり頼りなく、庶民的です。さらに、女房を駆け落ちさせて、戻ってくる度に、彼女がまた自分を選んだことに自足し、恋愛感情を細々と持続させるという、主人公は、なんという姑息な人格でしょうか。 しかし、単純にそうとも感じられないのです。原田芳雄が主人公を演じることにより、それが人間として、正当であるような、そんな重みを錯覚させるのです。そして、『愛の賛歌』です。このクライマックスの歌が指し示す「深み」と「高み」は、その意外性と共に、映画そのものに大きなインパクトを与えています。観ている僕らを高揚させ、そのふわーっとした高みから物語も大団円を迎えるのです。人生っていいものだなぁ~なんてね。  この映画は、ストーリーに特筆するところはないのですが、やはり原田芳雄の存在感が光ります。それは主人公の役柄を超えます。その個性をじっくりと味わえるかどうか、それによって評価が分かれる作品なのだと思います。
[ビデオ(邦画)] 8点(2011-08-16 08:27:50)(良:1票)
103.  マイ・バック・ページ 《ネタバレ》 
この映画の良さは、マツケンの語り口とその佇まいにあると思う。 C.C.R.を弾き語る無邪気さや、彼女にささやく甘い言葉、上滑りする論理、仲間が自衛隊駐屯地に潜入している時にしゃーしゃーと漫画を読んで笑っている姿(それを同志の女性に見られても平気な体面)、警察に対する飄々とした虚偽の受け答え。実に多面的かつ、それぞれに表層的すぎるキャラクターを見事に演じていた。何事をもカッコにいれて、ただ運動で名を残すことだけを目的としていた男。その打ち捨てられた構造だけを模倣して、本物になろうとした(なれると錯覚した)男。それはそれで魅力的にも見え、且つ示唆的だとも思った。  とは言え、当時の全共闘の学生達が目指していたことを軽くみてはいけないと僕は思う。ただ訳も分からず彼らは戦っていたわけではない。彼らは何を打倒しようとしていたのか。それは、「世間」と呼ばれていたもの。今でもそれは日本社会に蔓延り、日本人の倫理を決定づけている。というよりも、日本人が本当の意味の倫理感を抱くことを強力に阻害している頽落そのものが「世間」なのである。それは「空気」とも呼ばれる。空気との戦い。(そりゃ勝てんわな)  気が付けば、闘争の論理は空虚なものとなり、敵となるべき対象を射程できずに、全ては内ゲバとなった。それが連合赤軍事件である。  それでも、当時、学生達が大学という特権的な空間にいたが故に「世間」に対峙できたこと、それはとても自覚的なものだったのである。しかし、いまや世間と大学の間には何の境界もなく、それは無自覚であるが故に問題意識の端にもかからない。「思想やジャーナリズムなんて分かりませーん」と臆面もなくつぶやく若者達を作ったのは「あの頃の僕らより、今の方がずっと若いさ」として過去の挫折を総括してしまった団塊の世代の大人達なのは確かだろう。彼らが「世間」を軽く見做すものとして、そこから逃走するものとして、80年代のポップカルチャーを設定したのは60年代から地続きの現象であったが、70年代以降に生まれた者たちにその意味や経緯がまともに伝わることはなかったのである。。。  主人公の部屋の壁にはディランのレコード"Another Side of Bob Dylan"がちゃんと飾ってあった。エンディングの真心ブラザーズの『マイ・バック・ページ』も心に響いた。
[映画館(邦画)] 8点(2011-06-09 21:44:21)(良:1票)
104.  青い山脈(1949) 《ネタバレ》 
終戦直後の昭和24年。 同じ時期の他の日本映画よりも当時の時代的雰囲気が色濃く反映された作品のように思える。小津や成瀬の現代劇にみられる良質な日本的心性、ある種の情緒的な風景を感じることは殆どできないけど、時代そのものをストレートに感じさせる。それがこの映画の最大の魅力だと思った。  『青い山脈』は海辺の町の女学校を舞台とした青春ドラマである。生徒の恋愛騒動をきっかけとして、それを認める認めないで学校のみならず地域社会を巻き込んだ話し合いにまで発展する。終戦後のデモクラティックな雰囲気の中で、恋愛というタームを高らかにうたい上げ、抑圧的な共同性(大人社会)との対比の中で、若さという特権とその青春の道筋を堂々と開放してみせたという意味において、後の学園ドラマの原型ともいえる。(同じような展開で言えば、かなり後年の金八先生では、「恋愛」が一気に「妊娠」になる。。。)  当時の日本人の集団意識について。杉葉子演じる新子が池部良演じる六助と街を連れ立って歩いただけで、同級の女学生たちがそれを不純異性交遊と見做し、学校の名誉を汚す行為だとしてその非行を断罪するシーン。それが卑劣なラブレター事件に発展し、それを授業中に原節子演じる先生に指摘されて女学生たちが次々と自身の非を認めて泣き出すシーン。同日放課後、女学生たちが教室での出来事をいとも簡単に忘れたかのように、改めて新子を糾弾するシーン。これらのシーンは当時の日本的共同体に典型的な集団ヒステリーのように思えた。  女学生たちは、卒業したら地元の男性と見合い結婚して家に入るのだからと先生に諭され、変な噂になったら嫁ぎ先を失うと窘められる。共同体の限られた情報と知識の中で、地域と寄り添って生きるしかなかった女学生たち。それは、先生らも含めた地域住民たちも同じであった。地域は自律的な相互監視と共同幻想によって支えられ、それ故に共同幻想が外圧で揺らぐことでそれは閉塞状態において容易に集団ヒステリーと化す。  このような展開は何かを思い出させる。そう、終戦直前に実際にあった沖縄戦の集団自決の悲劇である。限定的な情報、相互監視的な閉塞状態、外圧によって極限化する共同幻想。その中で集団ヒステリーはどこまで暴走するのか、歯止めが可能なのか、、、映画のシーンはその小さな名残のようなものだが、僕にはとても印象的だった。
[DVD(邦画)] 8点(2010-12-29 18:25:59)(良:2票)
105.  告白(2010) 《ネタバレ》 
この話、ひとことで言えば、「ばかばかしい」。 これは、前に原作小説を読んだときに感じたことでもある。映画も基本的には原作をそのまま踏襲しているので、話の展開自体は同じように「ばかばかしい」。 なので、最後の方で再登場した松たか子が吐き捨てるように呟いた「ばかばかしい!」という台詞には正直ドキッとした。ほんと、そうですよね。ばかばかしい話ですよね。このプロット、この展開。松さんの言うとおりです。。  松たか子。前作「ヴィヨンの妻」も良かったけど、本作も堂に入った演じっぷりで、台詞回しや表情、そして、うしろ姿にはとても迫力があった。最後の「どっかーん」も鬼の形相のような笑顔も結構ぐっときた。  映画は、ばかばかしい話を随所に映像的に盛り上げていて、なかなか見所があった。この監督の映像感覚は相変わらず面白い。賑やかさの中に毒が効いていて、はっとさせられる場面もあった。ただ、あの断続的な映像が100分間ぶっ続けなのだから、やっぱり疲れるかな。  この話が観ている時の衝撃以上に全く心に残らないのは、話自体がマンガ的、キャラクター小説的だからだろうか。ノリとしては、よくある少年マンガのキャラ対決と同じかなと。少年が罪を犯す理由が「世間に自分を認めさせるため」であり、特に母親との関係に自我の心理的な動機を求める。100年前からの伝統に基づく実に類型的なお話である。(そこに最初から父親の影すらないのが現代的だけど) ついついそういう所につっこみを入れながら観てしまうのだが、何れにしろ、しっかりとキャラが立っていたので、この手の物語としてはかなり出来がよいのだと思う。マンガとしてみればその破天荒なばかばかしさは痛快だったし、多少の違和感を残しながら、最後はしっかりとオチが付いて、めでたし、めでたし、である。  告白とは? ということを考える。私の告白とは誰の告白なのだろう。私? 告白する私とは誰だろう? 告白すればするほど、いや、告白したつもりが、ただそう言わされているだけで、それが本当の私であるという確証など何処にもない。そうだろうか? 今や告白こそが私そのものであり、それ以外の本当など存在しえない、つまり「本当の私のココロ」などというものこそ、もはやありえないのだ、、、と考えてみる。そういう「告白」に人々が振り回されるという意味において、この映画の「告白」は実に現代的で軽い、なーんてね。 
[映画館(邦画)] 8点(2010-06-13 20:48:35)(良:1票)
106.  おくりびと 《ネタバレ》 
死とは非日常である。『おくりびと』を語る時、僕らは必然的に「死」というものを手元に引き寄せて、その輪郭を凝視することを強いられる。 死とは穢れである。故に古より、死は死穢を伴うものであり、日常から隠されてきた。  映画は「死」を美化しているように捉えられる。実際はそんなことはないと思うが、事実として、この映画を観て納棺師を志す人が増えたというニュースを聞けば、この映画がある種のイメージを喚起していることは否めない。もちろん、死者は「隠されるが故に美化される」というのが本来正しいだろう。死を衣装することにより、日常の中で隠蔽する技術こそが納棺師の仕業というものなのだと思うから。但し、この映画の中で納棺師は「おくりびと」というイメージを以て僕らに伝えられる。  医者、葬儀人、屠者、皮革加工者、料理人、刑吏、警吏、狩猟者、清掃人、等、死に纏わる職能者は、その存在そのものが死を喚起する為に古来より忌み嫌われていたと言われる。その中には医者や料理人のように現在では全く差別の対象ではない職能も含まれる。それは新しい知識とその蓄積、資格の敷居の高さによって克服されてきた。果たして納棺師はどうであろうか。  ハレやケという考え方は、日本人の心情の由来として説明されることが多いが、それは今でも有効なのだろうか? ファストフードやリサイクルの考え方、幾多の映像や情報が席巻する現代の世の中で、それらは既に新しい物語に組み込まれることが必要なのかもしれない。古からの伝統と心情を現代の日本にマッチさせる為の新しいイメージ。そういうものが可能なら、『おくりびと』は、良くも悪くもその先駆けなのかなと思った。 
[映画館(邦画)] 8点(2009-03-29 20:44:21)
107.  TOKYO! 《ネタバレ》 
池袋の新文芸坐で『トウキョウソナタ』(こっちが本命!)との2本立てで鑑賞。東京シリーズか。。 『エターナル・サンシャイン』のミシェル・ゴンドリー、『ポンヌフの恋人』のレオス・カラックス、『グエムル/漢江の怪物』のポン・ジュノ。3人の作家が描くオムニバス形式のTOKYOの物語である。 人々の想像の裏側から描く東京というファンタジー。椅子女。下水道の怪人。ボタン少女。ある種の「東京奇譚集」だろうか。 予備知識がなかった分、それぞれに意外な展開が面白かった。唐突に椅子に変身し、そのことに充足し依存していく女の仄かな孤独。都市への安住を否定する存在、下水道の怪人メルド(糞)という潜在的恐怖とその捩れた存在の奇怪さへの戸惑いと怒り。そして、恋と地震によって揺りだされる引きこもり達の生への欲求と畏れ。 新しい東京物語は、現代的な心情が紡ぐ都市伝説とでも言うべきものだろうか。そこには悲壮感がそこはかとなく漂うのみで、全体的にアカルイ映像が印象的だった。
[映画館(邦画)] 8点(2009-03-29 20:38:21)
108.  それでもボクはやってない 《ネタバレ》 
いい映画だと思う。映画というのはそもそも主観的で恣意的なもの。中立である必要性は全くないし、そうあるべき意味もない。 この作品を一方的な見方で糾弾することは簡単だけど、これってそんな簡単な作品なのかな? ものごとを単純化してしまうと本来そこにあるはずの多様性を感じることができないと思う。中立であるべきなのは僕らであって、必ずしも作品の方ではない。 僕は多少首をかしげるところもあったけど、概ね作品の流れには感心した。主人公は痴漢をしたのか、していないのか、それを真実と言うのならば、結局のところそれは主人公以外に分からない、ということが最後に分かったのである。判決はあくまで有罪であり、それが事実の結果なのだから。ラストの宙吊り感は作品に深みを与えていると思う。 
[映画館(邦画)] 8点(2008-03-06 02:01:08)(良:2票)
109.  ロスト・イン・トランスレーション 《ネタバレ》 
この映画、実は現代版の「東京物語」とも呼べる。元々、ソフィア・コッポラは東京という街をアメリカ人が迷い込む異国の地、自発的な孤独を生み出す環境として捉えているように思うが、それは正に小津の『東京物語』の主題でもあったはずである。これはある意味で外国人を主人公にすえたからこそ描かれ得る、本来的な「東京」の姿なのであるが、僕らはもうそういった見立てというか作為なしに、都市としての東京に現代的な物語としてのリアリティを感じないのかもしれない。確かに東京という物語は矮小化し、偏在化しつつあり、それはもう「東京」でなくても全く構わないとも思える。 本当の『東京物語』であれば、東京という場所における笠智衆と原節子の立ち位置が小津の世界観として一番しっくりくるが、それがこの映画では逆転<笠智衆がスカーレットで、原節子が都市生活に疲れたビル・マーレイ>しているところがアメリカらしい彼らの基本的なイノセンスの構図<子供こそが穢れなき存在であること>なのだと言える。そう考えれば、スカーレットの異様な子供っぽさも理解できるような気がするが、それを現代社会というタームに照らし合わせてみれば、また別の意味での新しさをも想起させる。 『ロスト・イン・トランスレーション』は都市という孤独を鮮明に描こうとするが、孤独は現代という空間であまりにも無自覚に受け入れられている為にその悲哀の輪郭はとてもぼやけている。抵抗しつつもそれを受け入れざるを得ないこと。それがたぶんビル・マーレイの悲劇であり、スカーレットの常態なのだろう。その受け入れ方の違いはある意味でとても切実である。 
[DVD(字幕)] 8点(2007-04-20 23:02:48)
110.  男たちの大和 YAMATO
乗組員3,333人の内、生存者はたったの300余名。それが史実「戦艦大和の最期」における最も明白な事実であろう。 作家山本七平が戦闘というものを「何が起こったのかなんて全く分からないまま、気がつくと周りが死体だらけだった」という現実として捉えていたように、各戦闘員はそれぞれの持ち場での役割をこなすのに精一杯で、各人が戦闘そのものを総体として捉えるのは無理な話だと言われる。大和の戦闘員の多くがその断片を抱えたまま死んでしまった現在、そのジグソーパズルを完成するのは不可能であり、大和での戦闘の実体というのは結局のところよく分かっていないというのが実際のところなのだろう。大和での戦闘に限らず、戦場で生まれたであろう多くの物語は、死者と共に失われてしまったと考えるべきなのだ。僕らは小説『男たちの大和』や吉田満の本によっていくつかの大和の物語を知ることができるが、やはりそれは断片なのだ。大和がどのようにして撃沈されたか、それはもう永遠に知ることができないのかもしれないし、彼らがどのような思いで闘い、死んでいったのか、それも結局のところ、その僅かな断片を知りえるのみなのである。 ひとりの士官が書いたルポによって大和の最期が全て記録できるとはとても思えないし、ましてや大和とは何か、などというものを総括できるわけがない。大和とは乗組員3,333人に限らず、その他多くの関係者の様々な物語の総体としてあり、その多くはもはや失われてしまったのだ。そして残ったのは神話である。それは吉田満『戦艦大和ノ最期』によって作られたものもあるだろう、また、太平洋戦争を通して日本人が拠り所とせざるを得なかった幻想がいまだに語られ続けているものもあるであろう。しかし、それはあくまで神話である。僕らは戦争というもの考えるとき、そのことを肝に銘じる必要がある。 そんなわけで映画における大和での戦闘シーンにもはや期待すべきものはないと言えようか。この映画は戦闘シーンを無理に描写するよりも、兵員、特に年少兵達に焦点を当て、彼らの青春群像として大和の物語を再構築した点がとても清々しく、これは青春映画としても出色の出来であると僕は思う。(そう、この映画は紛れもなく青春映画である) ある意味で、そういった群像にこそ、ほんとうの大和の物語、その断片の輝きがあると思うのだ。
[映画館(字幕)] 8点(2006-02-26 22:42:54)
111.  春の雪
三島由紀夫の『春の雪』は恋愛小説である。と同時に欲望と精神の総合小説とも言うべき『豊饒の海』の第一部を構成する。『春の雪』は、独立した作品としても十分に読め、ここには三島由紀夫の恋愛観が見事に顕現している。その骨子は、恋愛が自意識の劇であり、鏡であること、そしてその究極には不可能性という可能性への期待があり、それが刹那に超越され、持続しないことにある。『春の雪』はそういった恋愛の本質をよく捉えた小説であると共に、自意識が恋愛という観念に結実した美しくも悲しい、と同時に奇跡的に幸福な小説なのである。 僕は以前より映画化を期待する小説として、この『春の雪』を挙げていたが、理由はこの小説の様々なシーン、その背景がとても映像的であると常々感じていたからである。そして、今回、この映画化作品を劇場で観て、我が意を得たりとでも言おうか、その映像美にはとても魅せられたし、主演の2人もイメージ通りで、この映画が目指す映像世界にとてもフィットしていたと思う。 三島由紀夫の小説世界を美しく映像化し得た、この映画の監督の手腕を僕は褒めたい。幌車での雪見のシーン、旅館での逢瀬のシーン、どれも期待以上の出来であった。それを認めた上で僕は敢えて言いたい。 やはり、『春の雪』は小説を読むべきだと。 映画『春の雪』を一個の作品として認めるが、それが言説として完結してしまうほど、『春の雪』という作品の本質は多様ではなく、そして深い。 
[映画館(字幕)] 8点(2005-12-30 16:31:47)
112.  亡国のイージス
ガンダム世代によるガンダム的戦争小説。これが僕の原作評価である。戦争がテクノロジーとメカニックにより支えられたシミュレーションゲーム(ウォーゲーム)であるのと同時に、そこで一瞬にして消え去る生命に対して、その大量死を否定し、生のリアリティを確かめずにはいられない、ある意味で非戦場的な感情劇こそが現代の戦争小説なのである。それがある種のヒューマニティとテロルの論理との葛藤によって支えられる安直な思想劇であること。イデオロギーや理想に支えられる世界という観念、革命という精神の観念劇は物語の浮間に露ほども顔を見せず、行動は私怨により支えられる復讐劇であって、全ては各個人の生きる意味と意志に還元される。これは良くも悪くも我々の世代の戦争観であり、現実である。つまり戦争が絶対的外圧として描ききれない、平和な時代の無精神な戦争観こそがこの戦争冒険ノベルズの核なのである。「これが戦争だ」という台詞に漂う不可思議で不明瞭な違和感、それはマンガ的な非現実感であると同時に湾岸戦争から9.11に至る現代の戦争で僕らが感じた現実感そのものでもあるのだ。 とはいえ、僕が原作をなかなか面白く読了したのは、自身もガンダム世代だからだろうか。原作者がガンダムから戦争を学んだという言説を僕らはリアリティをもって受け止めることができるのだ。 さて、映画であるが、まずこの映画化に際して注目すべきは、監督が阪本順治であることだろう。阪本順治と言えばやはり『トカレフ』である。あの奇妙な人間闘争劇、剥き出しの個人が放つ乾ききった殺意や愛憎は、この監督ならではの現代感覚であった。この妙にウェットな戦争大作を阪本がどう料理し、映像化するか、興味はその一点に尽きるとも言えたのである。 結果から言えば、この監督の味わいは完全に原作に飲み込まれてしまったというのが僕の感想である。この映画の中に『トカレフ』の「あの」主人公たちはいない。原作への忠実さにダイハード的な冒険色を前面にうち出した映像はなかなか見ごたえがあり、そういう意味では、原作の冗長さを的確に纏めた上手い映画だと思う。役者達の演技も素晴らしかった。それだけに、もっと乾いた視線で登場人物たちの人間性を抉り取り、僕らに切実なる違和を投げつけてもらいたかったというのが正直なところでもある。それだけの力量を持つ監督だけに少し残念であった。 
[映画館(字幕)] 8点(2005-08-27 08:23:41)(良:1票)
113.  鬼畜
子供に対する母性という幻想が確立したのは、日本では明治以降のことだと言う。親が子供を思いやる気持ちというのは、ある意味で作られていくものなのだ。しかし、子供にとってはそうではないだろう。この映画を昔何度となくテレビで観た。ラストシーンでの少年の赦し、父親の懺悔には、毎度必ず涙したものだ。しかし、少年が本当に父親を赦せるのは、ずっと先の話だろう。いや、実際、そう簡単には赦せるはずがないのだ。社会の中で、子供は親を必要とするものである。ただそれだけのことかもしれないではないか。人が自らのエゴを抱えながら、生きていく原理としての「優しさ」を掴む為には、あなたが私と同じ弱い人間であるということを認めることから始めるしかない。だから人は人を赦せるのである。少年もいつかは大人になる。生き難さを生み出す様々な生の捩れに身を裂かれながら、いろんなことを徐々に赦していくのであろう。そうであれば、少しは救われるのだが。。。ということを今では考える。
8点(2004-10-25 21:42:56)
114.  トパーズ(1992)
「トパーズ」は、村上龍の優れた連作小説である。そして映画は村上龍が監督した唯一魅せる作品でもある。「トパーズ」は、SM嬢やホテトル嬢など、僕らから見たらどん底と思える仕事に従事している少女達の語りを通して、人が人として在るべきポジティブな姿が垣間見える不思議な味わいのある小説だ。悲惨な待遇を受け入れ、時に恐怖と隣り合わせにありながら、彼女達の語りは、単純に絶望しているとは思えない、何か一筋の光を思わせる、まさに宝石の如きキラキラとした輝きをみせるのである。彼女たちのアブノーマルな性質の中に見る実にノーマルな人間的輝きは、世界から沈下した彼女たちが見上げるアッパーサイドの僕たちの世界への視線であり、それはいつの間にか彼女たちと僕たちの関係性を超えて、生きていくことそのものの本質的な視線を捉えていく。逆に僕たちこそがこの世界に希望を持つことが叶わない存在としてあるのではないか。この作品は僕らにそう問いかけているように感じる。その捩れた問いが僕らに奇妙だが深い感慨をもたらす、実に不思議な感覚の小説なのである。さて映画はどうかといえば、さすがに原作者が映画化しただけあって、そのモチーフはまた別の形をもって作品化されていると感じた。小説の特徴である少女たちの「語り」は確かに映画で表現できえるものではないが、語りが沈黙へと変化してもそのモチーフは十分に理解できたように思う。小説が「語り」を手段としたのに対し、映画は彼女たちと僕たちの「視線」そのものを描くことによって、この作品のモチーフを再構築してみせる。その視線はとても静かである。それがこの映画を「魅せる」作品と感じさせる所以なのだろう。
8点(2004-07-17 02:10:25)
115.  リボルバー(1988)
佐藤正午の同名小説の映画化作品。これは映画を先に観た(のが良かったかな)。わりと雰囲気のある作品だったと思う。柄本明と尾美としのりのコンビはなかなか味があって、スリリングな展開中にも妙に間の抜けた空間を創り出し、事件に知らず知らずに関わっていく過程においても彼らの日常性には全く変化がないことによって、事件そのものを相対化してしまう。それは突然やってきて、すぐに去っていくのである。事件を柄本・尾美コンビの横において見てみると、事件そのものすら間の抜けた喜劇のように思えてくる。この辺りは原作と同様の展開だが、ある意味で確信的な物語のずらしであり、事件と傍観者の関係を実に正確に捉えた作品であると思う。ただ、如何せん、全体的に力が抜けすぎたきらいが無きにしもあらず、それは原作の味なのか、藤田監督が永遠に捉えられた「やりきれなさ」の終着なのか。確かに藤田敏八氏の最後の監督映画作品でもあるか。<あ~ん、先にレビューされてしまったw。哀しい。。。←冗談ですw>
8点(2004-06-19 11:14:31)
116.  ニッポン無責任時代
「サラリーマンは~♪気楽な稼業ときたも~んだ♪」これはドント節だったかな? いまや懐かしき年功序列、サラリーマンの黄金時代。昭和30年代、日本は、戦後民主主義という名のもとに経済の高度成長へまっしぐらの時代だった。「無責任」というキーワードは、逆説的にサラリーマンという経済の担い手の職業意識を高らかに鼓舞するものであったといえるのではないか。つまり、そのココロは、戦前的なモラルの失墜と経済中心主義、そして消費文化のさきがけ。この映画はある意味で確信的な勤労サラリーマン鼓舞キャンペーンだったのだ。本来的な意味で戦後民主主義が大々的に花開き、国民全体が消費文化<による自己実現という虚妄>に浮かれまくるのは、それから20年以上後のバブル時代ということになる。実は僕が「ニッポン無責任時代」を観たのもそんなバブルの時代。「わかっちゃいるけど、やめられない!」なんて歌いながら仕事をスイスイとこなし、口八丁で出世して、女性にモテまくる平均(たいらひとし)こと植木等は、時代の先駆者のように捉えられていたのではなかったか。確かに植木等ブームが再燃したのもあの時代ならではのこと。まぁその反動は90年代以降にくるわけだけれども、ほんの10数年の間で、この映画もすっかり省みられることがなくなったような気がする。そんな「歴史」を意識しながら見れば、この映画もまた別の意味で面白く思える。
8点(2004-05-15 22:01:51)
117.  半落ち
人は何の為に生きるのか?それが殺人犯 梶聡一郎をめぐる謎であり、登場人物達が自らに問いかけた謎でもあった。まさにその謎を中心として、物語は進行していく。登場人物達は夫々に自らの回答を信じながらも、それが捉えがたい謎であることに執心し、殺人犯 梶の行方を見守るのである。梶をめぐるサブキャスト達が入れ替わる毎に、この映画を観る者も否応無く自らに同様の問いかけをしているのではないか。それがこの映画の白眉なところだろう。しかし、僕は、登場人物やそれを観ている僕らがこの単純な問いかけを前にして揺れ動く、そのあまりにも素直な心情にある種の奇妙さを感じずにはいられない。生きるとはどういうことなのか。生きるということは、本来、主体的有り様であって、そこから始められるべきものなのだ。登場人物達の謎に対する失語状態と梶をめぐる真相の落ち着きぶりは、その素直さ故に逆に世の中の捩れを強く感じさせる。
8点(2004-03-21 23:19:21)
118.  火垂るの墓(1988)
この物語は、戦争で死んでいったであろう多くの少年少女達の名も無き史実を、美しくも残酷な童話に仮託した一種の鎮魂歌と見るべきでしょう。だから僕らは、この物語にもっと素直に感動していいと思う。戦争という現実は、語りえる以上に悲惨なものだし、僕らがそのすべてを知ることはできない。戦争とは、歴史であるとともに、歴史の喪失でもあるのですから。世に様々な戦争を描いた物語<戦場、戦後含めて>がありますが、本来そこには戦争に関わった人々の数だけのナラティブがあり、その多くは既に失われているということを僕らは知るべきなのでしょう。そういう意味で、この「火垂るの墓」という作品は、その美しさも残酷さも含めて、失われた物語の小さな灯火として見るのが正しい姿だと思うのです。戦争映画にも様々な視点があり、様々な表現がある。しかし、僕らはそれらの作品によって、現実の一端を想起することができるだけなのです。そのことを忘れてはならないと思う。
8点(2003-12-29 20:00:17)(良:6票)
119.  ア・ホーマンス
松田優作の監督・主演映画。そして石橋凌の俳優デビュー作。松田優作のターミネーターぶりはちょっと違和感があったが、思ったほどストーリーや雰囲気は悪くない。石橋凌の独特な台詞まわしもピタッとはまっていたと思う。このコンビもっと観てみたかった。
8点(2003-10-18 22:46:51)
120.  月光の夏
泣ける映画だ。特攻隊で亡くなられた方々に対し、60年後の僕らが真っ当に向かい合える為には、どうすればいいのか。それがこの映画の中で問われている。とは残念ながら思えない。それはあまりにも難しすぎるテーマだから。ここでは、単に、ある特攻隊員が出撃前に残したピアノ演奏にまつわる各自の思い出が語られるのみである。しかし、最後にようやく真実を語ろうと決意した旧隊員が何十年かぶりにピアノと対面するシーンを前にして、僕らがこらえきれず号泣してしまうのは、ひとえに仲代達也のうるうるしたギョロ目に圧倒されるからに違いない。でも、ほんとに泣けるよー。
8点(2003-10-17 00:23:57)
全部

■ ヘルプ
© 1997 JTNEWS