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プロフィール
コメント数 404
性別 男性
ホームページ http://onomichi.exblog.jp/
年齢 55歳
自己紹介 作品を観ることは個人的な体験ですが、それをレビューし、文章にすることには普遍さを求めようと思っています。但し、作品を悪し様にすることはしません。作品に対しては、その恣意性の中から多様性を汲み取るようにし、常に中立であり、素直でありたいと思っています。

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41.  ラヴソング 《ネタバレ》 
マギー・チャンと言えば、『ポリス・ストーリー』のヒロイン、、、というのはもう大きな間違い? 移り変わる時代背景の中で、男女の恋愛を描く物語と言えば、日本でも昔、『十年愛』なんてドラマがあったし、ハリウッドの『恋人たちの予感』も似たような感じだったかな。 近づきつつ何処までも擦れ違う2人、、、という最後の方の展開も、80年代後期のトレンディドラマ『君が嘘をついた』の最終回を彷彿とさせる。とは言え、これはもう携帯電話の時代には有り得ないシチュエーションなんだろうけど。 そんなイメージで観れば、『ラヴソング』という物語もベタな邦題に違わない、何てことない10年越しのラヴストーリーに過ぎないんだけど、でも、惹きつけられるものがあったのは確かなんだなぁ。 その要素の一つは、ヒロイン、マギー・チャンの個性なのだと僕は思う。彼女は決して可愛い子ちゃんではないし、特別に美人でもない。けど、その表情には言い知れぬ感情を秘めた独特の憂いがあり、その立ち姿には意思の通った芯の強さがある。そして、彼女の容姿から立ち上るのは、媚や理知というよりも、情の深さである。博愛である。 この映画には印象的なシーンが多い。自転車の二人乗りで語り合うシーン、初めてのキスシーン、新年の挨拶を交わすシーン、背中のミッキーマウス、海水パンツ、車のクラクションからのキスシーン、タイムズ・スクエアで自転車の野菜配達(?)、そして、N.Y.での偶然の再会から、香港での運命の出会いへ。それこそベタな恋愛的アイテムの寄せ集めとも思えるけど、こういう見せ方をある意味で「王道」というのかな。 最後に、偶然の再会から、運命の出会いへ。その可能性こそがこのラヴストーリーのベースであり、バックグラウンドとなっていると感じる。それがこの映画に惹きつけられた一番の理由かもしれない。
[DVD(字幕)] 9点(2009-09-21 08:22:45)(良:2票)
42.  ミリオンダラー・ベイビー
僕もやましんの巻さんと同様にフランキーとマギーの関係は恋愛そのものであり、同時にそれを超え出たものであると感じた。「自分を守れ」「タフなだけではダメだ」「相手の逆へ動け」、、、ボクシングにおけるフランキーの信条こそが彼の美意識としての人生を物語る。しかし、そんな彼の孤高さは、孤独と等価だ。フランキーとマギーは孤独が結びつける精神的な関係であると共に、トレーナーとボクサーというボクシングを通じた絆によって、一種の肉体的な関係をも共有する。僕らはそこに通常の恋愛における激しさやメロウさとは違う、揺るぎない生の勁さ(つよさ)、身体性に基づく深い関係を見出すのである。 2人は精神的な恋愛関係であると共に、身体的とも言える強い結びつき、生の実感を共有する。だからこそ、マギーはフランキーによって死に至らしめられることを望み、最終的にフランキーはマギーに対してタオルを投入できたのである。 スクラップがケイティに語り聞かせる。彼らがどう生きてどう死んだか、それが2人の物語として語られてこそ、関係を生きるという実感、可能性、そのリアリティが初めて強調される。僕はそこにこそ、この映画の生の強度を強く感じる。僕らにとっての主体的な生とは何だろうか?主体的な生とは主体的な死にも繋がる。今、日本には年間3万人の自殺者がいるが、彼らは主体的に死を選び取っているのだろうか?正直言って僕には分からない。僕には所詮「生きる」意味すらも実は分からないのである。分からないことは分かるし、そのことを意識する限りにおいて、分からないことのリアリティを感じることができる。それだけなのである。この映画を観て感じるリアリティも逆説的な生への実感という意味で同様かもしれない。最後に、、、この映画の陰影ある映像こそ、クリント・イーストウッドの「いかがわしい場所で人間の道を極める」意志そのものだろうと、僕は思うのである。 (追記)この映画のラスト、、、「人間の宥め難い不遇の意識に対する水のような祈りとして」、生きる努力に対するひとつの許しとして、タオルは投げられたのだと僕は思う。ちなみに行為としてのタオル投入は、闘いの放棄という意味しかない。通常、セコンドは闘者の直接的、間接的(肉体的)意志を感じ取り、またその声を聞き、タオルを投入する。その際、セコンドは闘者とリングを共にしているのだ。
[映画館(字幕)] 9点(2005-06-04 20:39:29)(良:2票)
43.  それでもボクはやってない 《ネタバレ》 
いい映画だと思う。映画というのはそもそも主観的で恣意的なもの。中立である必要性は全くないし、そうあるべき意味もない。 この作品を一方的な見方で糾弾することは簡単だけど、これってそんな簡単な作品なのかな? ものごとを単純化してしまうと本来そこにあるはずの多様性を感じることができないと思う。中立であるべきなのは僕らであって、必ずしも作品の方ではない。 僕は多少首をかしげるところもあったけど、概ね作品の流れには感心した。主人公は痴漢をしたのか、していないのか、それを真実と言うのならば、結局のところそれは主人公以外に分からない、ということが最後に分かったのである。判決はあくまで有罪であり、それが事実の結果なのだから。ラストの宙吊り感は作品に深みを与えていると思う。 
[映画館(邦画)] 8点(2008-03-06 02:01:08)(良:2票)
44.  私が、生きる肌 《ネタバレ》 
途中で「まさか...それだけは勘弁して...」と思ったが、その通りになってしまった。。。そうであれば妥当なラストかなと思う。(未見の人にはなんのこっちゃって感じですが)  愛する人を不慮の事故で失った時、もう一度、彼、彼女に会いたいと思う。それって、歌(♪会いたい)にもあったけど、人間にとっては至極自然な欲望である。但し、死んだ彼、彼女を再生したいとなると、これは禁断の欲望。自分の子供だったら、鉄腕アトムの悲劇(天馬博士に捨てられる)であり、スティーブン・キングならホラー小説になる。本作も同じ。アントニオ・バンデラス演じる医師は、自らの特殊技能により、死んだ妻の再生を目論む。それが犯罪であり、許されない倫理の超越だとしても、欲望を抑えることができない。それを愛と呼ぶなら、彼は、その為に悪魔と手を組むこともできる。  他人である「誰か」を整形と皮膚の合成という再生医療的処置により妻に仕立てあげる。確かにそれは「狂気」であり、「倒錯の愛」ではあるけど、発想としては「究極」でも「斬新」でもなく、手塚治虫の漫画に出てきてもおかしくない、ありふれたプロットである。  ペドロ・アルモドバルの世界において、禁断の二人の関係は「倒錯の美」となり、その変態的な世界観からすれば、そういう愛も有り得るのか、と錯覚するのだけど、実際は、そうではなく、無理強いされた側に最初から倒錯の愛もクソもなかったのである。当たり前か。でも、その姿で言われたら、やっぱり信用してしまうんだな。それは致命的に避け難い成行きだったのかも。  ラストで『私が、生きる肌』(The Skin I Live in)というタイトルの意味が分かる。外見の完璧さ、倒錯の愛、その有り得なさに期待した僕らこそ、完全にうっちゃりを食らわせられる。そして、少しホッとしたりもする。 そもそもアルモドバルの描く愛って常に一方的な自己愛の反映で、だからこそ本質的なところで僕らに響いてくるのだ。
[映画館(字幕)] 8点(2012-06-16 23:47:45)(良:2票)
45.  男はつらいよ 柴又慕情 《ネタバレ》 
マドンナは吉永小百合。  清楚で可憐。そして美しい。寅さんでなくても惚れちゃうね。その結婚相手がひげ面のデブ男というのには少しがっかり。それなら寅さんの方がいいのになぁと思うのだけど、最初から寅さんはアウトオブ眼中なのね。吉永小百合と宮口精二の親子はこれといった大きな軋轢もないまま最後に仲違いしてしまう。その辺りの経緯は少々物足りないが、その後の展開も含めて、続編となる『恋やつれ』に期待かなという感じ。  それにしても、この頃のハツラツとした寅さんは最高に面白いね。おいちゃんが本作から松村達雄に代わるが、寅さんとの絡みはなかなか派手で(多少暴力的なのだが)息の合ったところを見せている。
[DVD(邦画)] 9点(2012-04-28 23:03:50)(良:1票)
46.  ブラス! 《ネタバレ》 
イギリス・ヨークシャーの炭鉱町のブラスバンドが全英コンテストを勝ち抜いていく素晴らしきミュージカル映画、、、ではない。この映画は、とてもポリティカルな作品であり、その全てがダニーの最後の演説にあったのではないか。  ロイヤル・アルバートホールでの大会決勝戦。炭鉱の閉鎖、失業、借金、家族離散、闘病、自殺騒動など、幾多の困難があり、それでも音楽を自らの誇りとして、バンドメンバー達は決勝の舞台に立つ。最高の演奏をして、優勝を手にした彼らの喜びは本物であったに違いない。バンドが生き甲斐であり、全てだったダニーが観客を前に言う。「以前は音楽が大事だったが、人間の大切さには及ばない」と。炭鉱が閉鎖され、失業し、生活の糧を失って、それでも彼らは音楽を続けていくことができるか? 答えはノーだと。  1984年の全英ストから10年。イギリスはサッチャー首相の元、「小さな政府」を政策の根本として財政を立て直し、様々な民営化や規制緩和を進めた。その結果、新自由主義、経済至上主義の中で地方経済はズタズタとなり、失業者が溢れることになった。そういうイギリスが抱える背景の中に、この物語はある。  アルバートホールでの決勝戦、彼らは素晴らしい演奏をして優勝した。しかし、音楽は彼らの生活を救わない。その将来に明るい希望は見えない。最後の演奏は彼らの音楽に対する信と自らの誇り、そのギリギリの成果であったが、将来に生きる希望がなければ、その意志は持続しないのだと。状況は、正にBrassed Off (うんざり)なのだ。  それでも、僕は思う。この映画の素晴らしさは、やはり音楽にこそあると。ダニーの病室の前で、メンバーたちがヘッドライトを付けながら演奏する「ダニー・ボーイ」。テナーホーンを失ったアンディが口笛を吹く。音楽は、言葉や政治、諍いを超えた感動をもたらす。それが何かを生み出すという可能性。ダニー親子を救い、彼らをギリギリのところで繋ぎとめたのは音楽だった。そういう音楽の力を感じさせる素晴らしきミュージカル映画、、、かな。やっぱり。
[インターネット(字幕)] 8点(2012-07-23 08:14:35)(良:1票)
47.  奇跡(2011) 《ネタバレ》 
『奇跡』とは、両親が離婚した為に、鹿児島と福岡に離れて暮らすことになった幼い兄弟が「奇跡」を信じて、ある行動を起こす物語。というと、最近流行りのハリウッド的な一大アドベンチャーのように聞こえるかもしれないけど、実際は全く違う(当たり前か)。これは奇跡を起こす物語ではなく、奇跡を信じること(=子供)と世界を取ること(=大人)を巡る物語なのである。  この映画では、大人たちがとても単純に見えてしまう。それは、登場する子供たちが大人以上にいろんな感情に揺れ動いて、様々な心の機微を働かせており、そんな子供たちの存在によって、大人たちが完全に相対化されているからだろう。  しかし、ここで描かれる子供たちは大人たちの分身である、とも思える。今、大人になった僕ら(登場人物の先生たちや親たちも含めて)がタイムスリップして、フィクションとしての子供を演じている。僕にはそのようにも思えた。だから奇跡は起こらない。最終的にすべては世界の平常の為、ゆるゆると丸く収まっていくのである。僕らは素直に子供たちに感情移入できる。大人っぽい子供たちは、奇跡を信じつつ、最後には目の前にある「世界」の方を取ってしまうから。ささやかなかなしさを感じつつ。
[映画館(邦画)] 9点(2011-07-08 21:20:39)(良:1票)
48.  リトル・ダンサー
久々に映画を見て泣きました。僕にとっては「月光の夏」や「インディアンランナー」以来ですね。<と書くとなんか薄情な性格だと思われるかもしれませんが。。。> この映画はあの親父さんの映画ですね。実際、僕が泣けたのは、親父さんがスト破りをするところと息子の合格通知を知って突っ走っているところでしたから。人は誰しも意固地に陥るけど、その根拠の由来は既に無く、希望のひとすじを掴むも握りつぶすもあとはチェンジマインドする為の勇気だけなんだと、親父さんのなりふり構わない姿に感動しました。<頑固親父も居場所がない時代だ。。。> 僕はバレエダンスの型に関する知識は全くないので、主人公のダンスがバレエであるかどうかなんてどうでもよくて、ただダンスそのものが純粋に人を動かす力がある芸術であり、表現なんだってことを深く感じました。というか、それが上手い下手や情熱の有る無しに関係なく、人の心を揺さぶるからこそ、芸術的なんだということでしょうか。それは主人公の意思を超えていて、なおかつ型破りであるが故に彼のその後の成長を誰もが確信したんじゃないのかなと思います。確かにラストシーンは予想通りでしたからね。
10点(2002-09-22 16:41:15)(良:1票)
49.  
「A」と「A2」を連続して鑑賞した為に「A」の印象というのは若干薄い。これは「A2」の方がより考えさせられる内容だったことにもよるかもしれないが、かといって「A」に見るべきものがなかったかというとそれも全く間違いである。「A」があくまで荒木広報副部長を中心とした物語であるとすれば、オウムという日本を震撼させた犯罪者集団、狂信的宗教団体の中で、あまりにも普通に苦闘し煩悶する彼の姿を浮き彫りにしていることにこの映画の重要な意義を感じるからである。僕は、ある意味で同世代の彼に安堵と共感の念を禁じえなかった。僕らが忘れかけていた青春的な葛藤劇をこんなところで見せられるとは思ってもみなかったけれど。<これを青春映画と呼ぶことに全く異論なしです> もちろんオウムの犯罪は今でも許しがたいものであり、僕らは安易に彼らの信教を犯罪から切り離して認めることはできない。矛盾を抱えた世の中と自分自身との関係に苦しみ、人生に対する絶対的な回答を得たいという彼らの真摯な願望は分からないでもないが、その終着が今でも麻原に行き着くところに捩れた純粋さを感じる。しかし、この映画はその辺りのところは脇に置いておいて、オウムという鬼っ子を完全に排除したいという公安機構や犯罪者集団というレッテルでとにかく押し通したいマスコミや世間の醜悪さを見事に描いており、どちらかというと僕らの側にあり、僕らが意識することなく認めている体制というものに様々な理不尽さが存在することを見せ付けるのである。とにかく偏見というのは恐ろしいものだ。オウムは信者をマインドコントロールするために多くのビデオやマンガを用いたそうだが、今、思考停止状態にある世間をメディアが煽動することほど簡単なことはない。中立であるはずの報道が偏見の為に誤った情報を流し続ける、そういう恐ろしさを感じざるを得ないのである。この映画は誠実な人、荒木氏の廻りの不誠実な公安権力やメディアをかなり決定的に映像化しえたことでドキュメンタリーとして成功したとも言えるのではないだろうか。
10点(2004-06-27 23:09:53)(良:1票)
50.  危険な関係(1988)
バルモン子爵がいい人になってしまったのは、恋を知ったからだろうか。悪魔も「恋」で改心するものなのかな?ちょっと信じがたいですねぇ。失ってから気づく、大切なもの。それって「愛」じゃないのか。彼がトゥールベル夫人に見たものは、女神に見紛う「母の愛」だったのだー。バルモン子爵も悪魔になりきれないマザコン男だったっていうそれだけのお話かー。バルモン子爵は最初から恋愛っていう繊細なタイプじゃないしね。だいたいさ、恋愛って、追っかけている<知らない>時が一番ドキドキして、手に入れた<知ってしまった>途端に輝きも失せるものだから、話が逆なんだよな。
8点(2003-10-15 22:05:50)(良:1票)
51.  ジョーズ3
僕も3Dという宣伝文句に誘われて映画館で観ましたよ。もう20年前か~。ジョーズが迫ってくるとこは結構ビビったような記憶が。。。ビデオやDVDは3Dじゃないんだろうなぁ。そりぁ面白くないかもね。
2点(2003-10-12 15:21:40)(良:1票)
52.  マイ・バック・ページ 《ネタバレ》 
この映画の良さは、マツケンの語り口とその佇まいにあると思う。 C.C.R.を弾き語る無邪気さや、彼女にささやく甘い言葉、上滑りする論理、仲間が自衛隊駐屯地に潜入している時にしゃーしゃーと漫画を読んで笑っている姿(それを同志の女性に見られても平気な体面)、警察に対する飄々とした虚偽の受け答え。実に多面的かつ、それぞれに表層的すぎるキャラクターを見事に演じていた。何事をもカッコにいれて、ただ運動で名を残すことだけを目的としていた男。その打ち捨てられた構造だけを模倣して、本物になろうとした(なれると錯覚した)男。それはそれで魅力的にも見え、且つ示唆的だとも思った。  とは言え、当時の全共闘の学生達が目指していたことを軽くみてはいけないと僕は思う。ただ訳も分からず彼らは戦っていたわけではない。彼らは何を打倒しようとしていたのか。それは、「世間」と呼ばれていたもの。今でもそれは日本社会に蔓延り、日本人の倫理を決定づけている。というよりも、日本人が本当の意味の倫理感を抱くことを強力に阻害している頽落そのものが「世間」なのである。それは「空気」とも呼ばれる。空気との戦い。(そりゃ勝てんわな)  気が付けば、闘争の論理は空虚なものとなり、敵となるべき対象を射程できずに、全ては内ゲバとなった。それが連合赤軍事件である。  それでも、当時、学生達が大学という特権的な空間にいたが故に「世間」に対峙できたこと、それはとても自覚的なものだったのである。しかし、いまや世間と大学の間には何の境界もなく、それは無自覚であるが故に問題意識の端にもかからない。「思想やジャーナリズムなんて分かりませーん」と臆面もなくつぶやく若者達を作ったのは「あの頃の僕らより、今の方がずっと若いさ」として過去の挫折を総括してしまった団塊の世代の大人達なのは確かだろう。彼らが「世間」を軽く見做すものとして、そこから逃走するものとして、80年代のポップカルチャーを設定したのは60年代から地続きの現象であったが、70年代以降に生まれた者たちにその意味や経緯がまともに伝わることはなかったのである。。。  主人公の部屋の壁にはディランのレコード"Another Side of Bob Dylan"がちゃんと飾ってあった。エンディングの真心ブラザーズの『マイ・バック・ページ』も心に響いた。
[映画館(邦画)] 8点(2011-06-09 21:44:21)(良:1票)
53.  クレイマー、クレイマー
凡そ中学生くらいの頃にこの映画を観たときは、シングルファーザーどころか、離婚やら裁判やら失業やら、この物語で描かれるそういった家族や生活のあり方に全く現実感を抱けなかった。もちろん僕自身も若かったし、当時は安定した家族や生活というものに当たり前のような信頼をおいていたから、それはそれでとても自然な感想だったのだと思う。あれから20年、日本の現実は、この物語さえも普通の、いや過去の物語に変えてしまった。そして僕は大人になり、主人公と同じ運命を辿ることになる。この映画のハッピーエンディングが如何にポジティブな家族愛に満ちていたかをしみじみと感じる今日この頃である。
8点(2004-01-24 02:57:05)(良:1票)
54.  ラブ・アクチュアリー 《ネタバレ》 
クリスマスが近づくと思いだす映画『ラブ・アクチュアリー』。素敵なロマンティック・コメディですね。  冒頭でヒュー・グラントがナレーションで呟く”Love actually is all around.”がタイトルとなっていますが、この場合のLoveは恋愛というよりも、広義の「愛」でしょう。確かにこの映画の群像劇では、いろんな形の「愛」が描かれます。英首相の身分を超えた恋愛であり、幼い恋愛であり、言葉を超えた恋愛であり、肉体を超えた恋愛であり、肉体の恋愛であり、親友の彼女への横恋慕であり、大人のちょっとした火遊びであり、家族愛であり、姉弟愛であり、男同士の友情であり、、、。最後の方もやっぱりLoveなんですよね。ある意味で恋愛という幻想を超えた現実的なLoveです。それもいろんな形としての。  恋への勇気を描いた映画という評価もあるけれど、どちらかと言えば、「愛」という言葉の広がりというか、その大きさと共にミニマルさを感じさせる映画に思えます。ビートルズの”All Need is Love”が挿入歌として有名ですが、僕にはラストに流れるビーチ・ボーイズの”God Only Knows”が心に響きます。「君」は、デブのマネージャーでもあり、幻想の君でもあるのです。その愛に支えられている自分を感じ、それを伝えたくなるのです。  ♪もし君が僕から去るなんて事が起きたら  人生はそれでも続くけど 信じてほしい  この世は何の価値も示さない  生きる事に何の良さがあるんだい?  神のみぞ知る 君がいないと僕がどうなるか♪   The Beach Boys “God Only Knows” 
[DVD(字幕)] 8点(2011-12-18 23:30:34)(良:1票)
55.  桐島、部活やめるってよ 《ネタバレ》 
いわゆるメタ映画であり、尚且つ、それ以上のものが感じられる映画。  桐島とはいったい何者なのか? 映画部の彼らはなぜゾンビに拘るのか? 野球部幽霊部員の彼は何故、最後に涙を流したのか? いくつかの事象を帰納的に反芻することで、この映画の見事なまでの構成が見えてくる。  映画の解釈については、その高い評価と共に、既にネット上で広まっている。 代表的なのが、不条理劇『ゴドーを待ちながら』(ゴドー(GOD)の不在をめぐる物語)を下敷きとしつつ、その変容としての桐島=キリスト=希望というメタファー。そしてその対立軸としてのゾンビ=虚無=絶望という図式である。桐島の不在にオタオタする多くの登場人物たちと、それを自明なものとして、ゾンビ映画に拘るオタクの映画部員たち。そういった構造でみれば、この映画はとても分かり易い。それは他の解釈を許さないほどに。但し、僕がこの映画に感銘するのは、そういった構造を超えたところに、実は彼らのアカルイミライが垣間見えたからである。  最後のシーン。 映画部の彼と野球部幽霊部員の彼が夕日をバックに対峙する。そこでの映画部の彼のセリフが僕らの胸にすごく響くのだ。彼は高校生にして、既に絶望を知っている。でも、それに負けない自分というものを持っている。周りをゾンビに囲まれたショッピングセンターの中で、彼はそれでも闘い生きていこうと決意する。それは何故か?彼は撮ることによって常に希望と繋がっているから。彼は絶望を知りつつ、同時に希望と繋がっている。桐島=キリスト=希望。 映画部の彼こそ、桐島と唯一繋がっていたことが最後に明らかとなる。彼こそがアカルイミライの細い道すじをただ一人しっかりと見据えていたのだ。野球部の彼は、そのことを理解し愕然とする。桐島に電話して繋がらないことで、自分がゾンビに喰われてしまった側であることを悟り、そして涙する。  なんて素晴らしいラストシーンだろう。僕らのミライも少しアカルイと思える。  この映画の冒頭の多視点による物語の反復。世界を本当に捉えようと思ったら、たとえやみくもであろうとも、その世界なるものを多くの視点で囲んでいくしかない。そこには桐島と同じように「不在」しかないかもしれないけど、その中空構造の周辺から、浮かんでくる様々思い、そのさざめき、その切実さを僕らは、それによってこそ目撃することができるのだ。
[映画館(邦画)] 10点(2012-08-27 23:55:25)(良:1票)
56.  ミッドナイト・ラン
僕の中では、デニーロの映画で12番目ぐらいかな。「ミッドナイトラン」以降の映画に限定すれば、ベスト3には入るだろう。確かに「デニーロの転機になった映画」というイメージはある。あまりにも普通の映画で普通のデニーロだったからね。当時、僕の中でこの作品は、流行りの刑事アクション&コメディ系映画のワンオブゼムとの印象しかなかった。<デニーロである必然を全く感じなかったのが最大の印象だったのだ。> まぁ今観ればまた違った印象を受けるとは思うが。。。個人的にデニーロの本質とは、自然に滲み出る孤独と狂気の表情、現実への「もどかしさ」を漂わせる語り口にあると感じている。そういったイメージによって支えられた彼の存在感を自ら吹っ切ったのがこの「ミッドナイトラン」だったのだろう。この作品によって、彼の役者としての可能性が広がったのは間違いないが、明らかにアプローチを変えた以降の作品群のあまりの「普通っぽさ」に一抹の寂しさを感じることもまた確かなのである。これは、あくまで個人的にではあるが。。。
7点(2004-10-10 19:45:37)(良:1票)
57.  海の上のピアニスト
言葉が伝達し世界へ向かっていくものであるとすれば、音楽は浸透して世界と共に自らの内にも広がっていくものでしょう。<詩の言葉は別だけどね>彼がある女の子を眺めながら奏でるピアノ曲がありますよね。それは、相手に聴かせることを前提にしたものではなく、自らの心情、恋の感情そのものだったのではないかな? 確かにそのあと、録音したピアノ曲を女のこにプレゼントしようとする場面はあるけど、結局、彼は意志としての伝達がうまくできない人間なのですね。彼は、ピアノを奏でることによって、海を見つづけることによって、内なる無限を知ってしまったのだと思う。彼の内なる無限にとって、彼を取り囲む環境<船の上や鍵盤など>は限定された世界として常にバランスすべきものだったのでしょう。彼は、世界の無限を悟って虚無感に襲われたのではなく、最初から虚無を知っており、そして無限の「世界」を否定したのです。船を下りなかったのが、彼にとっての自然の選択だったように、船とともに人生を終わることも自然の選択だったのだと僕は思う。そんな彼に誰だって共感できないでしょう。だって僕らは見つめるべき内なる無限をもっていないから。僕らが共感すべきなのは、彼の親友のトランペッタ-であり、楽器屋のおやじなのでしょう。僕らは、彼の死を引き止められずに「あんたならどうする?」とつぶやいたトランペッタ-であり、それに意見することができなかった楽器屋のおやじなのです。そしてある意味で悲劇なのは、そういう僕らなのかもしれない。
10点(2002-04-12 00:43:23)(良:1票)
58.  スクール・オブ・ロック
遂に登場!「ハイ・フィデリティ」で変態的ロックおたく&ソウルシンガーを見事に演じたジャック・ブラックが、本職のロッケンローラーに戻って、その本物のロック魂を思う存分発揮した正真正銘のロック映画「スクール・オブ・ロック」! この映画は日本ではGW公開なので、まだ多くの人は観てないと思うけど、いやー面白かったなぁ。ジャック先生、最高です。落ちぶれたロックミュージシャンが代理教師を偽って小学校に潜り込み、なんと小学生とロックバンドを組んで地元のロックコンテストを目指す、という破天荒なストーリーなんだけど、まぁそんなストーリーはとりあえず置いておいて、とにかくジャック先生の一見狂犬のような容貌と躍動感溢れるボディアクションから繰り出されるパワフルなロックスピリットには圧倒されましたねー。笑えたし。やっぱりジャック・ブラックは「愛しのローズマリー」のさえないヤッピーなんかよりもロックが関わるこっちの映画の方がそのキャラクターを100%発揮できるんだろうな。まぁ、この映画はジャック・ブラックのオンステージですよ。そのアクの強いキャラクターにウンザリする人もいるだろうけど、僕は完全にハマリましたね。改めてロックって様式というかスタイルが重要なんだなぁって感じましたよ。ジャック先生も案外と趣味が幅広くって、AC/DCからザ・フー<ジャック先生のロック講義の中ではハードロックにジャンル分けされてましたねー>、ピンク・フロイドにブロンディ、ときたもんだ。ジェーン校長のスティービー・ニックス好きにも笑えたしね。ギターを使った授業は、なんか月亭可朝みたいだったよw。最後にステージでの演奏が盛り上がって、念願叶って観客へのダイブを受け止めてもらえたジャック先生。なんだ、これがやりたかっただけなの?? なんて、思っちゃったりしたけど、まぁご愛嬌。これもロックのスタイルなのだ。いやーとにかく面白い映画でしたぁ。
[映画館(字幕)] 9点(2004-03-27 23:26:21)(良:1票)
59.  ある日どこかで 《ネタバレ》 
ジェーン・シーモアが美しく、クリストファー・リーヴが颯爽としている。そして儚い。1980年のラブストーリー。 『ある日どこかで』”Somewhere in Time”は、恋愛のカルト映画と呼ばれ、熱狂的なファンもいるらしい。確かにストーリーは奥行きに乏しく、プロットは破錠している。けど、惹きつけられる。それも確かだ。  冒頭、1972年、年老いたエリーズが若きリチャード・コリアーの前に現れ、”Come back to me”と囁く。その夜、彼の処女作の脚本を胸に抱き、ラフマニノフ『パガニーニのラプソディー』を聴きながら、グランド・ホテルの一室で彼女は静かに息を引き取る。 数年後、リチャードが偶然に立ち寄ったグランド・ホテルで若きエリーズの写真を見つけ、彼女に惹きつけられる。68年前の写真の彼女に恋をする。彼はタイムトラベルの末、1912年のグランド・ホテルで公演中の女優エリーズに会う。リチャードとエリーズの湖畔での邂逅。近づくリチャードの姿にエリーズが思わず呟く。”Is it you?” この一言が運命だった。  全ては彼の一夜の幻想だった、、、と言ってもいいし、1980年時点において、彼の衰弱死は単なる虚妄と錯乱の結末でしかない。 しかし、だからこそ、僕らはこの物語に惹きつけられるのではないだろうか。ただひたすらに彼女の美しさに惹かれたリチャードのように。それを受け止めたエリーズのように。その幻想を美しき物語に。
[インターネット(字幕)] 8点(2010-04-03 09:28:06)(良:1票)
60.  テルマエ・ロマエ 《ネタバレ》 
面白かった。原作未見で、予備知識なく映画を観られたのが良かったのかもしれない。とにかく、序盤のギャグがことごとくハマった。終盤のシリアスな展開も良かったな。僕って結構単純なのね。  話自体は荒唐無稽だし、上戸彩がラテン語を理解したり、温泉旅館のおやじ達がタイムスリップして主人公たちに合流したり、日本に皆一緒に戻るところなど、ご都合主義も甚だしいけど、それはそれ。そこがまた笑えるところだったりして。。  単なるギャグ映画としても面白かったけど、古代ローマとテルマエの歴史を絡めた物語としてもよく出来ていたと思う。この映画、イタリアの映画祭で大爆笑の大絶賛だったらしいけど、イタリア人はこの映画の日本人たちをどう見たのかな? 日本のおやじ達が率先して湯治場建設に協力する姿に古代ローマ人の阿部寛が感心して言う。「それにしても何故彼らは手伝っているのだ?自分の名誉にもならないことを。彼らは常に行動を共にし、個人と言うものを犠牲にする。彼らには自分の名誉などよりも優先すべきことがあるというのか?」 これって日本人の集団主義と奴隷根性を言い当てているよね。これが美徳として好意的に伝われば、世界に紛争がなくなり平和が訪れるのだけど。。。  「日本人は髪の毛が黒いという以外、殆どその容姿に共通した印象を持たない。肌の色、髪の毛の質、体型、一重/二重まぶたなどの多様性。日本人は単一民族どころか、かなり幅広い人種の集合体である」というようなことを最近読んだけど、この映画の阿部寛を見ていると「なるほど」と納得してしまう。彼は古代ローマ人を演じられるように容姿がかなり日本人離れしていると言われるけど、だからこそ、彼は日本人なのだ。  ※原作漫画も読了。こっちも面白かったけど、漫画で表現されている様々なギャグが映画で的確に(いや、それ以上に面白く)再現されていることに改めて感心した。
[映画館(邦画)] 8点(2012-05-13 10:55:52)(良:1票)

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