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鉄腕麗人さんのレビューページ[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2598
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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101.  MEG ザ・モンスター
「B級モンスター映画」と呼ばれるジャンル映画を、長らく愛してきた。 僕自身が映画を観始めた1990年代は、モンスタームービーの一つの隆盛期とも言え、数多くの同ジャンル映画が生み出され、興奮と恐怖、そして酷評が渦巻いていた。  “B級モンスター映画”の不朽の名作としてもはや誉れ高い「トレマーズ」を始め、「ザ・グリード」「アナコンダ」はその代表格と言えるだろう。 ローランド・エメリッヒ版「GODZILLA ゴジラ」や「ジュラシック・パークⅢ」も優れた“B級モンスター映画”だと言って間違いない。  そして90年代のモンスター映画として忘れてはならないのが、1999年の「ディープ・ブルー」だ。 “人喰いザメ”を描いた映画といえば、勿論その筆頭に挙げざるを得ないのは、スティーヴン・スピルバーグの「ジョーズ」だろう。 しかしながら、“B級モンスター映画”のジャンルに限った上での“サメ映画”と言えば、スピルバーグ御大の名作を差し置いて「ディープ・ブルー」を思い浮かべる映画ファンはとても多いだろう。  生体実験によって生み出された巨大で利口なサメたちが、凶暴に、そして知性的に、実験施設の人間たちを襲う。 アクション映画の雄、レニー・ハーリン監督が描き出したこのサメ映画は、映像的な迫力もさることながら、誰がどの順番で死亡するか予測不可能で、その破天荒なストーリーラインが魅力的なモンスター映画の名作だった。  そして本作は、その「ディープ・ブルー」のテイストを多分に孕んだ、良い意味でも悪い意味でも、「B級モンスター映画」と呼ぶに相応しい娯楽映画として仕上がっている。  未知の海溝探査を行う海洋研究施設を舞台にし、太古の巨大鮫“メガロドン”が施設の人間たちに襲いかかるというプロットは、「ディープ・ブルー」ととても似通っており、主人公がいざとなったら自ら海中に飛び込み巨大鮫と直接対峙する“筋肉バカ”であるところも共通している。  ただし、この映画において最も注意すべき要素は、その“筋肉バカ”の主人公を演じるのが、我らがジェイソン・ステイサムであるということだ。 この要素を正確に捉えて鑑賞できているかどうかで、鑑賞後の満足感は大いに変わってしまうと思う。  この映画は、“B級モンスター映画(サメ映画)”であると同時に、紛れもない“ジェイソン・ステイサム映画”である。  詰まるところ何が言いたいかというと、いくら規格外の巨大鮫が襲ってこようが、海中で絶体絶命の一騎打ちになろうが、ジェイソン・ステイサム演じる筋骨隆々の主人公が死亡するということは絶対に無い。ということ。  この映画の主人公は、「無理やり連れてこられた」的なことを言いはするが、端から自分自身をより危険な状況に追い込んでおり、最終的には“メガロドン”との「対決」を一人楽しんでいるフシすらある。  それは普通のモンスター映画の主人公であれば鼻白むキャラクター設定だろうけれど、演じるのがジェイソン・ステイサムであるのならば、話は全く別。 クライマックスにかけてどんどんと馬鹿っぽくなる映画全体のテンションは、“ジェイソン・ステイサム映画”として極めて真っ当で、良い。 最終的な“決着シーン”では、非現実的すぎて大笑いしてしまったことも、ステイサム映画ならではだろう。  と、当代随一のアクション映画俳優のスター性に溜飲を下げる一方で、“B級モンスター映画”としてはもう一つ振り切れていないことは否めない。  せっかく巨費を投じた大作映画なのだから、もっとビジュアル的に大胆な“画”があってしかるべきだったろうし、古代鮫の規格外の巨大感も今ひとつ表現しきれていなかった。  またジェイソン・ステイサムの脇を固める俳優陣も、大富豪役のレイン・ウィルソン、リーダー役のクリフ・カーティスと味のあるキャスティングができていたので、新鮮な人物描写や、小気味いいストーリーテリングがあれば、もっと面白味は深まったろうと思う。  “サメ映画”のジャンルの深層には、「Z級映画」と呼ばれる更に常軌を逸したモンスタームービーがおびただしい群れをなしているとも聞く。その中では本作で登場した“メガロドン”などはもはや使い古されたネタらしい。  僕はまだおっかなくてその世界に足を踏み入れていないのだけれど、これを機にちょっとその深い海の底を覗いてみようかと思う。
[インターネット(字幕)] 6点(2020-02-23 00:19:27)(良:2票)
102.  2012(2009)
ディザスタームービーが好きである。災害による極限状態の中での群像劇における感動が好きなんだと思う。 今作のローランド・エメリッヒ監督作「インデペンデンス・デイ」は宇宙人襲来を軸にしたSF映画であったが、描かれるパニックの中での群像劇が見事で、大好きな映画だ。  エメリッヒ監督作品の良いところは、莫大な予算をかけつつも醸し出される良い意味での「B級映画」的な軽妙な“ノリ”にあると思う。 「アメリカ万歳!」「英雄万歳!」という安直なテイストの全肯定こそ、この娯楽映画監督の最大の売りだろう。  今作においても、「世界の滅亡」という最大のディザスター(災害)の中で、彼らしい軽妙さは健在で、絶大な映像力で世界の終末を描き切った様には、問答無用の迫力があったと思う。  ただし、絶対的な”終末”を描く中において、やや爽快感には欠けていたとも思う。 その最大の要因として、“ヒーローの不在”が挙げられる。 ジョン・キューザック演じる主人公の父親は、家族を救うために超人的な活躍と運の良さを見せるが、そのキャラクター自体に魅力がないというか愛着が持てない。 この手の群像映画には、脇役キャラクターの妙も欠かせないところだが、それぞれのキャラクターに今ひとつパワーがないことも、映画としての爽快感の無さに繋がっていると思う。  ディザスタームービーとしての醍醐味やお約束はくまなく押さえ、充分に見応えのある娯楽映画と言える。 しかし、「好き」な映画として認識されるには、もう一つ”好感度”が足りなかったようだ。 
[映画館(字幕)] 6点(2009-11-25 12:53:32)(良:2票)
103.  ジョン・ウィック:コンセクエンス
ラストの「決闘」の舞台に向けて、パリ中から群がるおびただしい数の敵を蹴散らしながら、50代後半のキアヌ・リーヴスもといジョン・ウィックは、二百数十段の階段を登り切る。そして、見事な“階段落ち”を見せる。 決闘開始時刻のタイムリミットが迫る中、数十段のロスかと思いきや、まるでコントのように延々と転がり続け、なんと二百数十段丸ごとの階段落ちを目の当たりにした時、この映画世界の真の境地を見たと思った。 そこに生まれたのは失笑などではない、唯一無二のアクション映画に対する紛れもない感嘆だった。  どんなにマンガ的な設定であろうと、どんなにあり得ない展開であろうと、どんなに馬鹿馬鹿しい描写であろうと、それを“アリ”にしてしまう孤高の娯楽力。それこそが、「ジョン・ウィック」という映画化世界が達した世界観であり、五十路を越えて己の“アクション映画馬鹿”の精神を貫き通したハリウッドスターの矜持であろう。  振り返ってみても、「ジョン・ウィック」シリーズは、いわゆる“一級”のアクション映画の“品質”など端から追い求めていない。「ミッション:インポッシブル」や「007」のように、世界中の幅広い映画ファンに認められて称賛されようなんて考えは微塵も無かった。  本シリーズにおいて、キアヌ・リーヴスを始めとする製作陣が追求したのは、古今東西のアクション映画マニアの心に巣食う「俺が観たいアクション映画」に他ならなかった。 もっと言い切るならば、キアヌ・リーヴス自身が“観たいアクション”そして“撮りたいアクション”の結晶だったのだと思う。  「俺が撮りたいアクション映画」、それを実現するためならば、彼はあらゆる努力を惜しまない。 ガンアクション、マーシャルアーツをはじめ、玄人はだしのあらゆるトレーニングを積み重ね、60歳を目前とする今なお、己の身一つで“スタイリッシュ”を体現し続ける。 本作において、ヨーロッパの荘厳な教会や歴史的建造物を背にして歩くだけで、映画シーンとして様になるキアヌ・リーヴスは、まさしくイケオジの頂点だろう。  169分というあまりにも長い上映時間の中で、ほぼフルフルで展開されるアクションシーンの連続に対して、観客の多くは高揚感を遥かに通り過ぎて、頭がクラクラしてくるに違いない。 正直なところ映画的に冗長であることは否定できないし、何度も何度も繰り返される殺し屋同士の殺し合いの様は、まともな神経で観続けれることは困難で、ちょっと頭がどうかしていると思える。  だがしかし、もはやその狂気性とカオス感こそが、「ジョン・ウィック」なのだと認めて、呆然としながらこの映画世界を呑み込むしかない。 そう半ば強制的に観客の価値観をも支配してしまう本作と、その主人公及び主演俳優の在り方は、エキサイティングで、やっぱりちょっと異常だ。
[映画館(字幕)] 8点(2023-09-23 22:14:08)(良:2票)
104.  耳をすませば(1995)
最初に観た時は、丁度主人公たちと同じ年頃で、その熱っぽさに恥ずかしさからか引いてしまうところがあったけど、数年たった今観ると涙が溢れる。今求めるものが、あの頃確実にあったという懐かしさと惜しさに胸がつまる。実際にあんな行動をする中学生はまずいないだろうけど、可能性をはらんだ純粋なエネルギーがリアリティを出す。あの頃の未知なる希望は、はるか遠くにいってしまった。でも、まだ、届かないわけではない。
[DVD(邦画)] 10点(2003-10-26 14:28:23)(良:2票)
105.  インターステラー
レイトショーの映画館を出て、真冬の凍てつく空気に包み込まれた。ふと夜空を見上げると、澄んだ空気の遥か先に満月と星が光っていた。 広大な宇宙の中で、自分自身がひとりぽつんと存在している感覚を覚え、孤独感と大いなる宇宙意思を同時に感じ高揚感が溢れた。 普段の何気ない景色が一変していたようだった。これこそがSF。これこそが映画だと思えた。  数多の大傑作がそうであるように、今作もとてもじゃないが言葉では表現しきれない。 特にこのSF映画が描き出す世界観の多層性と文字通りの深淵さは、言葉で説明すべきものではないだろう。 「圧巻」とひと言で言ってしまえばそれまでだろうし、それで充分だとも思える。  とても複雑な宇宙理論が繰り広げられる語り口は、一見難解に見える。しかも監督はクリストファー・ノーランである。一筋縄ではいかないことは必至。 しかし、実際に観終えてみれば、この映画は決して難解なのではなく、難解な要素に彩られた普遍的な人間ドラマであったことに気づく。 複雑に入り組んでいるのは、宇宙理論ではなく、むしろ多様な人間の在り方とそれに伴う濃密なドラマ性だった。  “親子愛”をはじめとする人間のドラマを根底に敷き、未知の領域に踏み出した人類は、「人類」そのものの限界とその先を追い求めていく。 中盤、“マン博士”という人物が登場する。その名前の通り、彼こそが今現在の人間の本質を表したキャラクターであろう。 一つの“限界”に辿り着いてしまった人類、進化か滅亡か、このキャラクターはその分岐点の象徴と言える。(このキャラをほぼノンクレジットで演じているスター俳優はエラい) 主人公が、“マン博士”と真正面から対峙し、それを越えようとする様こそが、人類の進化の瀬戸際だったのだと思える。  高度な科学的空想の先に辿り着く人間の真の姿と可能性。僕はそれこそが、人間が生み出した「Science Fiction」の本質であり、醍醐味だろうと思う。 そういうことが満ち溢れんばかりに繰り広げられるこの映画を、愛さないわけがない。  ただし、この映画を語り切るには、まだまだ膨大な時間が必要だ。 それは、これがとても幸福な映画体験であったことの証明だろう。
[映画館(字幕)] 10点(2014-12-07 01:37:45)(良:2票)
106.  僕らのミライへ逆回転 《ネタバレ》 
「映画」が好きな人間にとって、「映画を観るということ」の価値は計り知れない。 それは理屈ではなくて、ただただシンプルに「好き」ということになると思う。  レンタルビデオの中身が消えてしまった。じゃあ自分たちで勝手にリメイクしてしまおう。予想外に面白かったから、また観たい! ストーリーの設定自体は強引すぎるほど強引で、リアリティなんてまるでない。 でも、その根本的な願望は、とてもシンプルで理解できる。  映画が好きだから、街が好きだから、店が好きだから、そうして作られた映画を、みんなで観て、共に泣き笑う。  そのささやか「幸福感」に感動する。
[DVD(字幕)] 6点(2009-03-29 11:09:27)(良:2票)
107.  ハウルの動く城
エンドロールが流れ始めた瞬間、すべての思考が止まってしまった。  これが、あの宮崎映画なのか…。  渦巻く困惑と落胆。脳裏を振り絞って、映画を振り返り、納得のいく“感想”を導き出そうとしたけれど、結局何処にも辿り着けない。 「まさか、そんなことが…」と疑いを消し去れないが、一個人の結論とするならば、“この映画は成立していない”。  はっきり言って、支離滅裂も甚だしい。 圧倒的なビジュアル、美しくファンタジックな空気感、しかし、あるのはただそれだけだ。  それらしい雰囲気とイメージを幾重にも折り重ねただけに終始する。 一見魅力的なキャラクターは、躍動的に動き発言する。 しかし、その言動のあちこちで“根拠”と“理由”が欠如し、人格そのものが最終的に軽薄になってくる。つまりは、物語になっていないのである。  木村拓哉が声優をやることの是非、倍賞千恵子が少女の声を演じることの違和感、どうにも内容が伝わってこない予告編、公開前の不安要素はいろいろあった。  しかし本当の問題はそんなことではなかった。  「千と千尋の神隠し」で抱いた一寸の不審がいよいよ増幅する。 “もう宮崎駿に想像性に溢れた「物語」を紡ぎ構築する創造力は無いのではないか?””テーマ性のみをただ広げる「内容」を展開するだけで精一杯なのではないか?”  ………………いや信じない。 なぜなら、宮崎映画によって映画を観るということの“快感”を育んだと言って過言でない者にとって、それ以上の悲劇は無いからだ。
[映画館(邦画)] 1点(2004-11-21 02:42:44)(良:2票)
108.  ぐるりのこと。
人と人の結びつきなんて、とても“あやふや”で、脆いものだろうと思う。 結ばれることも、離れることも、実際紙一重で、ギリギリな状態。 でも、だからこそ、今一緒にいられることが、愛おしく素晴らしいものなのだと思う。  ふと一緒になった夫婦が、愛し合い、傷つき、泣き、笑いながら、それでも共に生きていく。 特別に劇的なわけではない。 普遍的だからこそ、その当たり前の“結びつき”が、キラキラと光り輝いて見える。  なんて素晴らしい映画だろうと思った。なんて人生は素晴らしいのだろうと思った。  木村多江+リリー・フランキー。 何とも味わい深い配役によって、とても魅力的な夫婦像を見せてくれた。 特に、木村多江の存在感が素晴らしく、10年という歳月の中で、子を亡くし深く落ち込んでいく繊細さと、そこからまた浮かび上がっていく力強さを、とても魅力的に表現してみせてくれる。 また、リリー・フランキーも、陰惨な数々の事件を法廷画家という視点で触れながら、心揺れる妻を静かに支える朴訥な夫を好演したと思う。  そして「ハッシュ!」以来の待望の監督作品となった橋口亮輔の繊細な人間描写が冴え渡る。  人間が傷つくことに、明確な理由なんて存在しない。 だから、そこから立ち直っていくことにも、理由なんてない。 どうするべきだとか、何をしてはいけないなんてなくて、それを求めようとしても難しい。  ただ一つ、ヒントがあるとすれば、それは、「時間」だと思う。 「時間」さえ経ることができれば、人間は大抵のことは消化できる。  そういう、人間の根本的な“つよさ”を描いた映画だと思う。
[DVD(邦画)] 10点(2009-03-29 10:54:18)(良:2票)
109.  百円の恋
「最高」だ。何が?って、「安藤サクラ」に決まってる。  “どん底”が住処の女。ヤケクソで始めた一人暮らしから、悲惨な処女喪失と失恋が更に追い打ちをかける。 鬱積という鬱積に呑み込まれそうになったとき、彼女はそれを振り払うように、ひたすらに拳を振るい始める。 振るう拳の速度が上がるほどに、彼女は生気を取り戻し、美しくなっていくようだった。  見紛うことなき“サイテー”の状態からの、ささやかだけれど格好良すぎる“ワンス・アゲイン”。 こんな「女性像」を体現出来るのは、いまやこの女優をおいて他にいるわけがない!と、心底納得させられる。  2年前に「愛のむきだし」と「サイタマノラッパー2」を観て以来、安藤サクラという女優の“本物感”はひしひしと感じていたけれど、どうやらここにきてこの女優はとんでもない領域に達してきているようだ。 爆笑問題の太田光が激賞していたように、「バケモノ」という表現が相応しい。  “汚れる”ことが出来る良い女優は他にも沢山いる。 でも、醜いまでに汚れると同時に、可笑しさと、愛くるしさと、格好良さ、さらにはエロティシズムまでも孕ませることが出来る女優は唯一無二だ。 今作ではその上に、驚愕の身体能力まで見せつけてくる。その存在感は他のどの女優にも当てはまらない。まさに「バケモノ」だ。  この映画は、キャッチコピーの通りに呆れる程に痛い恋愛映画であり、遅すぎる青春映画であり、過去最高級のボクシング映画である。 ただ、それらを全部ひっくるめて、最高の“安藤サクラ映画”と表すのが最も相応しかろう。
[映画館(邦画)] 9点(2015-01-17 21:38:46)(良:2票)
110.  ゴジラ(1954)
改めて観ると、やっぱりいろいろ凄い。 60年前の特撮映像そのもにフレッシュな驚きは勿論無いが、60年前にこの映画をリアルタイムで観た日本人はの恐怖と興奮は容易に想像でき、その「驚愕」が大変羨ましい。  ゴジラ映画の本質であるこのオリジナル作品の根底にあるものは、やはり「畏怖」だと思う。 未知なる巨大生物への畏怖、それにより生活が人生が文字通り崩壊される畏怖、そしてその発端は我々人類の所業そのものにあり、この悲劇自体が何ものかによる戒めであろうという畏怖。  この60年前の特撮映画が、ただの娯楽映画として存在したわけではなく、日本国内はもとより世界中において尊敬の念をこめて愛され続けたのは、まさにその神々しいまでの恐怖感によると思う。   一方で、改めてこの映画を鑑賞しなおしてみると、当時の日本の風俗や人々の価値観が如実に表れていてそれはそれで興味深い。  “オキシジェンデストロイヤー”を開発した芹沢博士は、実は時代に翻弄された悲恋をまとった人物で、映画的に捉えるならば本来もっと自暴自棄になってもいいはずなのに、最終的にはあくまで人道的に己の命を捧げる様は、悲しくて仕方がない。  名優・志村喬が演じる山根博士も、いかにも人格者的な古生物学者として振る舞ってはいるが、一人ゴジラの生態究明に固執する様は少々異様ですらあり、その目は時に狂気じみていた。  細かい所だと、菅井きんが演じていた婦人代議士の国会での熱弁の様だったり、死を覚悟して最後の放送を続けるテレビ塔のアナウンサーの様だったり、時代を感じる人間性やキャラクター設定が、60年後の今だからこその味わい深さになっていると思える。  また随所に散りばめられている戦争の傷跡と、反戦・反核へ警鐘も、決して仰々しいわけではないが実に切実に生々しく描かれている。 通勤電車での「また疎開はいやだなあ」という会話だったり、「もうすぐお父ちゃまのところへ行けるのよ」という母親の言葉だったり、ゴジラ急襲後に放射能反応を示される子どもたちの姿だったり……。  前代未聞の娯楽性の中に、この国が背負った明確な傷跡と、自らを含めそれを起こした人類への怒りを刻み込んだからこそ、この特撮映画は「特別」なものになったのだろうと思う。 
[CS・衛星(邦画)] 10点(2003-09-29 12:12:36)(良:2票)
111.  お熱いのがお好き
アンジェリーナ・ジョリー、スカーレット・ヨハンソン……、今現在もハリウッドを彩るセクシーな女優たちは沢山いるけれど、“セックスシンボル”という呼称を聞いて、真っ先に思い浮かぶのは、今尚「マリリン・モンロー」だと思う。 彼女の映画をまともに観たことが無かった僕の世代(1981年生)でもそうなのだから、その「存在」自体が”伝説”と呼ぶにふさわしい女優なのだろう。  ただ、“セックスシンボル”というイメージが余りに強く、「女優」としてはいささか“軽薄”な存在として捉えていたことも事実。なので、これまで彼女の出演映画を観ようなんて思ったことは一度も無かった。 今年、「アパートの鍵貸します」「情婦」と、ビリー・ワイルダーの監督作品を立て続けに観ていなければ、この「お熱いのがお好き」という映画も観ることはなかっただろう。  マリリン・モンローという女優名も、「お熱いのがお好き」というタイトル名も、これまで散々耳に入れてきた名称だ。そして、名前だけ知っていて、大体“知ったつもり”になっていた。 非常に、愚かなことだと思う。  ビリー・ワイルダーの映画術と脚本力は流石に卓越している。トニー・カーチスとジャック・レモンのパフォーマンスも素晴らしい。 が、それらを明らかに”二の次”に押しのけてしまう程、マリリン・モンローという女優の圧倒的な存在感に惹き付けられる。  前述の呼称が示すように、確かにセクシーなことはこの上ない。ただそれと同時に、抜群の愛くるしさに溢れている。 彼女はその短い人生の中で、銀幕で、プライベートで、数多くの男を虜にしてきた。 それは“欲情”によるものだとずっと思っていたが、決してそうではないとこの映画を観て思った。 彼女は、男が女を好きになるという「本質」の様々な要素を集約した存在だったのだと思う。  理屈ではなく、“本能的”に好きにならずにはいられない。その「存在」は、間違いなく映画史に残る奇跡だと思わずにはいられない。  と、マリリン・モンローという“シンボル”の存在感に打ちのめされた深まる秋の夜。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2010-10-24 01:40:34)(良:2票)
112.  ゴーン・ガール 《ネタバレ》 
「怖えぇ…」 苦笑いを引きつらせつつ、そう思わず呟いてエンドロールを迎えた。   映画は、妻が突如として失踪した夫の“戸惑い”から始まる。その“戸惑い”の描き出し方が先ず巧い。 あらゆる可能性を秘めたストーリーテリングの中で、夫を含めたすべての人物が怪しく見えてくる。 夫を演じるのはベン・アフレック。愚鈍さと狡猾さが次々に見え隠れするこのスター俳優の配役は、まさにベストキャスティングだったろう。 今作は基本的には彼の視線から描かれるわけだが、彼自身の人物像が結局最後まで掴みきれないので、観客は終始絶妙な不安定を強いられる。  そして、妻役のロザムンド・パイクが物凄い。 殆ど無名に近いこの女優のパフォーマンスには、度肝を抜かれた。 一人の女が持つ明確な多面性と狂気。その様はもはや悪魔的であり、登場人物たちも観客も「どうしようもない」と諦めるしかなくなってくる。 キャラクターとして凄いのは、決して恐怖の対象として留まっているわけではないということだ。狂気が顔を出すまでの彼女は、間違いなく美しく、魅力的だ。馬鹿な男が次々に惚れてしまうのも無理はない。そして、狂気がさらけ出された後でさえ、この女はどこかキュートで虜にされてしまうに値する魅力を携えている。 その様は、やはり「悪魔」と形容するに相応しいかもしれない。  恐怖と狂気に溢れたサスペンスとして、それだけでも充分に完成度は高い。ただこの映画が最終的に行き着く先はそういう類いのことではなかった。 上質なサスペンスに彩られて終に描き出されたのは、「○○」というあまりに普遍的な“形式”が孕む“恐ろしさ”。 笑いが相応しい映画ではないはずだが、この映画には随所に滑稽さが内包されている。ある意味でこの映画は、テーマとなるその“形式”を極めてショッキングに誇張した“コメディ”なのではないかとすら思えてくる。  男と女。その二種類の人間という生物が関わりあうことで生まれるおぞましさにも似た恐怖と、呆れてしまうほどの滑稽さ。本来相反すると思われるそれらの要素が絡み合う濃ゆい映画だった。   実は、僕自身が「○○」をしてちょうど5年目。問題はないつもりだけれど、その慢心こそが、この映画で描かれている「恐怖」に直結するような気がして、思わず震える。 夜遅くまで映画を観て帰り、冷蔵庫に残された妻が作ったエビチリを食べながら、また震えた。
[映画館(字幕)] 9点(2014-12-12 23:42:06)(良:2票)
113.  ドライヴ(2011)
ポーカーフェイスの主人公。彼の冷静な表情を映し出した後、その静かな目線の先に意外な“事”が起きている。 その特徴的な演出が作中幾度か挟み込まれていて、それは、この映画において終始“胸騒ぎ”を覚える要因となった。 “胸騒ぎ”を最後まで拭いされない映画だったが、言いようも無い居心地の良さも同時に感じる。この映画は、そういうとても奇妙な映画だったと思う。  ストーリーは極めてシンプルだ。 自動車の修理工であり、映画のカースタントマンであり、犯罪の“逃し屋”を裏家業とする孤独な主人公が、或る人妻に恋をして、刑務所帰りの彼女の夫のトラブルに巻き込まれ、ギャングと対峙する羽目になるという。 シンプルというよりも、映画のメインストーリーとするにはあまりに陳腐なプロットと言える。  しかし、この奇妙な映画の“売り”は、そんな陳腐なストーリーそのものではない。  本名も含めて、その素性が結局最後まで明らかにされない謎に満ちた主人公の男。 彼の抱えた心の「闇」、そしてそんな彼に訪れた一寸の幸福の邂逅。 斜陽に照らされたアスファルトを走り出す描写に溢れた一瞬の輝き、それこそがこの映画の文字通りのハイライトであり、その限られたシーンに個々人の思いを込められるかどうかで、この映画の賛否は大いに揺らぐように思う。  主人公が経てきた人生を映し出す描写はまったくない。 しかし、この男は、過去においてすでに人生における「最悪」を経験してしまっているのだろう。 この映画で描き出される主人公の孤独と激情には、それを物語る記憶の断片が垣間見えたように思えた。  彼が、この映画で描かれる物語の先を生き抜いたのかどうかなんてことは、もはや関係ない。 彼は、「最悪」の闇の中で、突如として僅かな“輝き”を見られた。 この映画が描き出したかったことは、ただそれだけだったのではないかと思う。   インフォメーションには、「疾走する純愛」と記されてあった。そのコピー自体は間違ってはいないと思う。 しかし、決して浅はかなカップル向け映画などではない。 隣の席の人間のことを気にすることなく、座席の手すりにでもしっかり掴まっていなければならない。 でなければ、きっと振り落とされて、怪我をする。
[映画館(字幕)] 8点(2012-05-27 00:43:33)(笑:1票) (良:1票)
114.  ゴジラ キング・オブ・モンスターズ 《ネタバレ》 
ゴジラ映画ファンとして先ず断言したいが、本作が映し出すビジュアルはとんでもなくエキサイティングであり、世界中総てのゴジラ映画ファン、怪獣映画ファンは、必ず映画館で見なければならない。 それが決して言い過ぎではないくらいに、映像的には本当に“どえらいもの”を見せてくれる。それは間違いない。  その妥協の無い映像的クオリティーは、この映画の製作陣が、日本が生んだ“ゴジラ映画”を心から敬愛し、尊敬してくれていることの紛れも無い証明であり、そのことについては、日本のゴジラ映画ファンとして心底嬉しく思う。  と、5年前の前作とほぼ同じ、いやそれ以上の「満足感」を得られたことは否定しない。 しかし、だ。その「満足感」と同時に、決して看過できず、拭い去れない「拒否感」を覚えたことも否めなかった。 前作鑑賞時と同様に、エンドロールを見送りながら、“神妙な面持ち”を崩すことができなかった。  「拒否感」の正体はもはや明確である。“核の取扱い”只々この一点に尽きる。 ストーリーテリングにおける“それ”についての「意識」の違いさえ無ければ、僕は前作も含め、この“ハリウッド版ゴジラ”を大絶賛することを惜しまなかっただろう。 だが、残念ながら、前作に続き本作においても、「核兵器」という人類が生み出した最凶最悪の脅威に対する“意識の違い”というよりも、むしろ明確な「無知」が、大きく分厚く障害として立ちはだかった。  その「無知」は、致し方ないものとも思える。 世界で唯一の被爆国として、この国の子どもたちは、核兵器の脅威とそれがもたらした悲劇に関する情報を、教育の中で蓄積し、潜在意識レベルで認識している。 いかなる場合であっても、核兵器は「否定」の対象であり、その象徴が、脅威としての「ゴジラ」なのだ。 一方、かの国の子どもたちにとって、「ゴジラ」とは“核が生み出したヒーロー”であり、その認識を変えることは極めて難しいことなのだろうということを、前作と本作を観て痛感した。 歴史も、文化も、価値観も違えば、それは当然のことだろうし、こと「核兵器」に関する経緯においては、日本とアメリカの立場は全く両極にあったわけだから、その「乖離」は殊更であろう。  ただ、そのように俯瞰して見れたとしても、本作における核兵器のあまりに軽薄な取り扱いは、この映画が「ゴジラ映画」だからこそ認めるわけにはいかない。 衰弱したゴジラに対し、核爆弾をあたかも“カンフル剤”のように爆発させ、復活する様を仰々しく映し出し、本作随一の名場面のように仕上げた様には、怒りを覚えるというよりも、唖然としてしまった。 我らが渡辺謙の熱い見せ場には申し訳ないが、日本のゴジラ映画ファンにとっては、あのシーンが最も「不適切」で「不要」だった。   でもね……。 これがアメリカ人が愛し、アメリカ人が観たい「ゴジラ映画」であれば、それがすべてであり、娯楽映画として本作の在り方を否定する余地は無い。と、本心から思う。(立ち位置が定まらないようで申し訳ないが)  実際、僕自身、前作同様にゴジラの巨躯に感動し、キングギドラが醸し出す絶望感に更に感動し、あの“新兵器”の登場や、“小美人”オマージュなど、一つ一つの要素に興奮した。そして、伊福部テーマ全開の劇伴には、高揚感と共に感謝が溢れた。  詰まるところ、僕はこの映画が大好きなのだ。だからこそ、“嫌い”な部分が我慢ならないのだと思う。
[映画館(字幕)] 7点(2019-06-01 23:30:00)(良:2票)
115.  劇場版シティーハンター 〈新宿プライベート・アイズ〉
原作は全巻保有していたし、TVアニメシリーズも小中学生の頃に好んで観ていたオールドファンなので、久しぶりの「復活」の報には無論興味を惹かれたけれど、劇場まで足を運ぶつもりはなかった。 しかし、出張中の新宿で、観たかった大作映画のタイムスケジュールがどれもこれも合わず、ならばと思い立ち鑑賞。「コレを観るなら、“新宿”だろうよ」と。  ゴールデンタイムの新宿バルト9の館内は盛況で、「シティーハンター」というコンテンツ、そして「冴羽獠」というキャラクターの時代を越えた魅力を改めて感じた。 特に今作は、全編「新宿」が舞台で、最終決戦の地も「新宿御苑」をモデルとしており、まさに「ご当地映画」的な盛り上がりも多分にあったのだと思う。 映画館から出て徒歩数分で、映画の舞台となった歌舞伎町やゴールデン街に足を運ぶのも一興だろう。  というわけで、今回の映画化企画は、「新宿」という街そのもののイベント企画という趣向が思ったよりも強かった。 故に、普段から新宿を活動拠点としている人たちや、古くからこの街を愛する人たちにとっては、問答無用に愛着を持たざるを得ない仕上がりだったろうと思う。  その一方で、原作ファンを満足させる内容であったかと言うと、残念ながらそうではなかった。 北条司による原作漫画で、ハードボイルドな世界観、大人の色気と色香に痺れ、「格好良い」ということの意味を知ったファンとしては、あまりにチープなストーリー展開に鼻白んでしまったことは否めず、失笑と苦笑の連続だった。 作画やビジュアル的にもお世辞にもクオリティが高いとは言い難く、テレビスペシャルを見ているようであった。  原作・アニメのオールドファンや、新宿のオトナたちをメインターゲットにするのだから、ストーリー展開的に、もっとハードに振り切って良かったのではないかと思う。 裏社会No.1のスイーパー(始末屋)である冴羽獠に、ただの一度も明確な“殺し”をさせず、パチンコ玉での応戦や、ドローン相手のドンパチに終始させてしまう展開には意気消沈せずにいられなかった。  そして何と言っても最大の難点は、自主規制か何だか知らないけれど、最後の最後まで冴羽獠に“もっこり”をさせなかったことだ。 お慰みのように、主題歌の最後に神谷明に「もっこり」と言わせるが、そういうことじゃないんだよ。 「それが時代の流れ」と言ってしまえばそれまでだが、人を殺さず、“もっこり”もしない冴羽獠なんて「シティーハンター」じゃない。   だがしかし、クライマックスでの「SARA」、そしてエンディングの「Get Wild」が流れた瞬間に高揚感を抑え切れないのも、オールドファンの性。 実家に置きっぱなしの原作漫画全巻を近日中に取りに行くのは間違いない。
[映画館(邦画)] 2点(2019-02-23 23:57:54)(良:2票)
116.  ノウイング 《ネタバレ》 
極めて「微妙」な映画だった。酷い映画ということはないが、決して面白くはない。が、独特の味わいはある。そういう映画。  ミステリアスに彩られた50年前の「予言」が、人類の災厄を次々に当てていく。そして、最終的な予言は、世界の終末を示していた。 と、よくあるような題材ではあるが、その描き方は一定のセンスをもって緻密に表現され、物語の「真相」と「顛末」に向けて、観客を惹き付けることに成功している。映像のクオリティーも非常に高かったと言える。  ただ残念なことに、導き出される「真相」と「顛末」には、一切の“捻り”がない。 それはそれで、真っ当なストーリーテリングだとも言えるし、ドストレートな展開が逆に”新鮮”と言えなくもない。 しかし、タイトルも含めて、そこかしこにそれなりの伏線をめぐらせている風に見せて、結局紡ぎ出された顛末がアレでは、やはり充足感には程遠い。  もはやこれは、個々人の趣向の問題になってくるかもしれないが、大エンターテイメントを醸し出しつつ、想像以上に「間口」の狭い作風には、良い意味でも悪い意味でも、面食らってしまった。
[映画館(字幕)] 6点(2009-07-27 22:03:21)(良:2票)
117.  エノーラ・ホームズの事件簿
秋の夜長、赤ワインを傍らに、ある意味において“現代版”の「シャーロック・ホームズ」を鑑賞。 “現代版”と言っても、ベネディクト・カンバーバッチの「SHERLOCK」のように現代のロンドンを舞台にしているわけではなく、コナン・ドイルが描いた19世紀後半のシャーロック・ホームズがそのまま登場する。 異なるのは、シャーロック・ホームズ本人が主人公ではなく、彼の“妹”が主人公であり、彼の“母親”がキーパーソンであるということ。  シャーロック・ホームズに“妹”がいたなんて話は聞いたことがないけれど、彼だって人の子、いくら架空のキャラクターであろうとなんだろうと、当然“母親”は存在する。もしかしたら“妹”もいたのかもしれない。 ただ、もしそういう家族構成だったとしても、原作小説の中で、“母親”や“妹”のキャラクター描写がピックアップされただろうか。 おそらくは、ただ一文節で紹介される程度だったのではなかろうか。 少なくとも、シャーロック本人にも勝るとも劣らない頭脳明晰なキャラクターとしては描かれることはなかっただろう。と、思う。   なぜそう思うのか? それは、“そういう時代”だったからだ。   今この時代に、シャーロック・ホームズ本人を脇に追いやって、彼の“妹”と“母親”を「女性」の代表として、映画世界の中で雄弁に語らせる意義。 それもまた、“そういう時代”だからこそようやく成立し得たテーマだったと思う。 だからこそ、原作同様に19世紀後半のロンドンを描いたこの作品が、“現代版シャーロック・ホームズ”と思えたのだ。  重要なのは、登場人物たちを現代人として描き直すのではなく、あくまでも当時の時代設定のままで、当時の社会の中で生きる人間として描いていることだ。 それは、女性蔑視や性格差に対する問題意識や発言や行動が、何も現代社会に限って巻き起こっているものではないというメッセージに他ならない。 100年前から、いやもっと前から、女性たちは、与えられるべき正当な権利と、認められるべき自由な生き方を主張し続けているのだ。  聡明な母は、「ひどい未来を残すのは耐えられなかった」と、愛する娘が16歳になったタイミングで姿を消す。 それはまさに、過去から現代に至るまで、世界中の女性たちが胸に秘め続ける思いではないか。   この意欲的で独創的な映画もまた「Netflix」映画である。 Netflixで独占配信される作品には、社会的、思想的、政治的なメッセージをダイレクトに強くぶつけてくる作品が多い。 映画作品としては、その主張の強さが時にアンバランスに感じる時もあるけれど、それも、“この時代”が必要とせざるを得ない表現方法であり、手段の一つなのではないかと思う。
[インターネット(字幕)] 7点(2020-10-17 00:27:50)(良:2票)
118.  アンノウン(2011) 《ネタバレ》 
殆ど予備知識無く鑑賞を始めたので、冒頭から滲み出ているサスペンスフルな空気感にすんなりと引き込まれ、二転三転する展開を堪能しながら最後まで楽しむことが出来たことは間違いない。 サスペンスアクションとして、サスペンスの緊張感とアクションの高揚感がバランス良く配置されており、鑑賞直後の満足感は当初の想定よりも随分と高かったと言える。  ただし、観賞後数分間でちょっと振り返ってみると、粗という粗がポロポロと出てきてしまうことは否めない。  よく考えると映画全編に渡って言えることだが、「実は一流の○○○」だったというには、そもそもの言動がずさん過ぎて陳腐だ。 まず目的のために徹底した偽りを謀るとはいえ、目的地への移動中に至るまでその偽りを貫く必要があるのだろうか。これは明らかに観客を欺くためだけの演出であり、人間描写上の必要性はないと思う。 そんでもって、空港のタクシー乗り場で最も重要な鞄を置き忘れるって、どんだけうっかり屋さんなんだという話だ。これも結局、ストーリーとしての一つの目的を設置するためだけの設定であり、極めて安直だ。 他にも、一流ならば乗り込んだ先の言語で世間話くらいは出来るようにしとけよ!とか、ふいの自動車事故とはいえ簡単に気を失い過ぎだろ!咄嗟に飛び降りるとかそれくらいしようよ!とか一流の組織のメンバーのくせいに素人の女の子にやられてどうすんだ!とかとか……、一度突っ込み出したら止まらなくなってきそうだが、とにかくよくよく考えると用意されていたオチに対して整合性が無さ過ぎる要素に溢れてしまっている。  ストーリーのアイデア自体は、オリジナリティが高いとは言い難いけれども充分に面白味に長けている。それが興味を最後まで持続させる最大の要因だとも思う。 しかし、このアイデアであれば、ラストの顛末でもっとどぎつく踏み込むことができたなら、数多の粗を振り切って余りある映画に仕上がっていたかもしれないなと思う。リーアム・ニーソンのクライマックスの表情は観る者を惑わせる緊張感が含まれていて良かったけれど……。  まあそこまで完璧なクオリティーを求めるべき類いの映画ではないと思うし、観ている間と観終わった瞬間に満足していたならそれで充分だと思う。  と同時に、画面から溢れ出る上質な色調と巧い俳優陣の演技によって、もの凄く質の高い映画に“見えるだけ”に、やはり残念に思う。
[DVD(字幕)] 6点(2012-02-26 02:14:25)(良:2票)
119.  スター・ウォーズ/フォースの覚醒 《ネタバレ》 
スクリーンに映し出されたすべてのものが、映画として、ただただ“楽しい”。 物語、造形、活劇、キャラクター、映画を彩る様々な要素に対して、喜怒哀楽をも超えた多幸感を覚えた。 日曜深夜のレイトショーを観終えて、0時過ぎに帰宅。多幸感と共に増してくる余韻と高揚を紛らわせるべく、ウイスキーを3杯飲んだが、益々興奮して全然眠れなかった。  厳重な情報統制によって“幕があがる”まで秘密に包まれた最新作であった。 新三部作の公開を心底待望するからこそ、鑑賞の直前まで「期待」以上の「不安」を拭い去れなかった。(まったく落ち着かず、座席に着いたはいいものの上映開始前に4度もトイレに行ってしまった……)  そうして満を持して詳らかになった最新作、目の前で繰り広げられたものは、何の事はない、「スター・ウォーズ」そのものだった。 情報統制に対してヤキモキし続けたファンに対して悪戯な笑みを見せるかのように、奇をてらうことも、捻ることもない、ただしかし、何もかもが“新しいSW”の映画世界が描き出されていたと思う。  何よりも素晴らしかったのは、今作が、オールドファン向けの懐古主義に固執しなかったことだ。 勿論、世界中の旧三部作ファンへの配慮は存分に張り巡らされているが、今作は決してのそういった“サービス”に終始していない。 あくまでも、描き出されたものは、新しい世界の、新しい世代に向けての、新しい「スター・ウォーズ」だったと思う。  ハリソン・フォードをはじめとして、旧作スターたちの、文字通り息を吹き返したような活き活きとした存在感は嬉しい限りだった。 しかし、それ以上に、新しい主人公をはじめとする新世代のキャラクターたちが、悪役や脇役も含めて非常に魅力的だったと思える。 特に、主人公“レイ”を演じた新星デイジー・リドリーの存在性が素晴らしい。 SWの新三部作の主人公抜擢など、その重厚は計り知れないはずだが、この23歳の若い女優は、思わず「奇跡的」という表現を使いたくなるくらいに、見事にSWの主人公として収まっている。 彼女を筆頭として、新しい俳優たちが演じる新しいキャラクターたちが、この後どう成長し、未知なるストーリーを紡いでいくのか、ほんとうに楽しみでならない。  中盤以降、新世代のキャラクターたちの魅力が深まっていく程に、この映画が辿り着く一つの“顛末”を薄々感じ始めていた。 それは、ストーリーテリング上、ある意味必然的な展開であったが、やはり衝撃的で、あまりに悲しく、涙が溢れた。そして、チューイの咆哮が、涙腺を決壊させた。   現実も理屈も遥か彼方に追いやって、「創造」された世界に没入させる。 それこそが、「スター・ウォーズ」という映画世界が、時代を超えて世界中の映画ファンに与え続けた絶対的な価値だったと思う。 その唯一無二のエンターテイメント性は、まさに「伝説」であり、その再構築、もしくは新構築は、そもそもの“創造主”であるジョージ・ルーカスでさえ、困難だった。  しかし、J・J・エイブラムスは、そのあまりに高いハードルの第一段階を、申し分ないほどの完成度で越えてみせた。 またそこには、ディズニーの支配下に入ったことによる付加価値も大いに反映されていると思う。 主人公の現代的なプリンセス性や、性別や人種などによるストーリー設定の偏りの排除は、この数年でディズニー映画が生み出し続けている作品に共通する「理念」だと思う。   あらゆる要素が幸福に絡み合い、「スター・ウォーズ」はついに、創造主ジョージ・ルーカスの“インサイド”からの脱却と再誕を果たした。   ああ、すぐにでももう一度観たい。いや、何度でも観たい。
[映画館(字幕)] 10点(2015-12-21 23:13:27)(笑:2票)
120.  クロール -凶暴領域-
まず最初に言っておくと、“B級モンスターパニック映画”好きとしては、この映画は断然アリ。 流石は「ピラニア3D」を手掛けたフランス人監督アレクサンドル・アジャ、この手のジャンル映画の何たるかをよく理解した上で、とても丁寧な映画作りがなされている。  競泳選手の娘が、ワニと洪水の恐怖の渦を得意の“クロール”で泳ぎ切り、父娘の絆を取り戻す話。  と、この映画のプロットを文面にすると極めて「馬鹿」みたいだけれど、そういう馬鹿馬鹿しさを、大真面目にパニック映画として映し出すことこそが、“B級映画”としての醍醐味だろうと思う。 馬鹿らしいプロット、馬鹿らしいストーリー展開だと感じつつも、主人公の心情や、恐怖に至るまでのプロセスがきちんと描かれているからこそ、彼女が突如として巻き込まれる悪夢のような状況にすんなりと入りむことができる。  また、極めてミニマムな映画的題材や素材を最大化し、エンターテイメント性溢れる「恐怖」を紡ぎだしていることも巧みだった。  まず「ワニ」という題材が相当地味だ。それも、馬鹿な科学者が遺伝子操作で狂暴化させたモンスターワニなどではなく、近所の“ワニ園”にいる極々フツーのワニが襲ってくるという設定が、地味すぎて逆にチャレンジングだった。  恐怖の対象となるワニの地味さを、舞台設定を主人公家族がかつて住んでいた家に限定することでカバーすると共に、フレッシュな恐怖心や緊迫感を創出することに成功している。 更には大部分の展開を、湿地の性質も加味されたジメジメと不潔で不快極まりない地下スペースに絞り込むことで、主人公たちが味わうストレスとパニックを何倍にも増幅させている。  そして、舞台となるかつての“マイホーム”は、主人公の娘と父親が抱える“喪失”とも巧みにリンクし、そこからの脱却が、父娘のドラマをエモーショナルに盛り上げる。  襲い来るワニの精巧なビジュアルや、しっかりと迫力をもって映し出される暴風雨や洪水の災害描写を見る限り、それなりに巨額の製作費が当てられていることは見て取れる。 もっと分かりやすく仰々しい舞台設定を構築することも恐らくできたのであろうが、それをせず、あくまでも“マイホーム(家族)”の映画に仕上げたことこそが、今作の最大の狙いだったのだろう。  そういう明確な“チャレンジ”に溢れた作品だからこそ、ベタベタな王道展開にも素直にグッと親指を立てたくなる。
[インターネット(字幕)] 7点(2020-11-23 23:50:08)(良:2票)

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