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なんのかんのさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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21.  時をかける少女(1983) 《ネタバレ》 
けっきょく最初スキーを持ってなかったってのがヒントなのね。画面の中央に丸く色がついていく。ラベンダーの匂いをかいだときは、逆に中央だけ色が抜け落ちる設定。途中で色がサーッとひいていく切なさがいい。ラストはいろいろ解釈できる。深町君への思いが深いところに残っていて、吾朗ちゃんと結ばれずにいる、ってのか、あるいは再び深町君と結ばれる可能性を与えているのか(そうじゃないな)、深町君と吾朗ちゃんは理想と現実と思うべきか(一度何らかの純粋を志向する夢を持ってしまった者は現実とうまくやり合っていけなくなるってのか)。老いた上原謙と入江たか子のシーンが必要以上に長くインサートされているのも、ヒロインとの対比なのか。諦めた者と諦めない者と。それらをひっくるめて、青春の切なさなんです。演出としては、花壇の中からフラスコが倒れるとことか、深町君が原田知世の頬にマンガン(?)をなでつけるとこなんか、ハッとした。でも一番嬉しいのは、倒れていたのが起き上がって歌いだす驚き。いちいちのシーンのときに少しずつ撮りだめしてたんだろうな。
[映画館(邦画)] 7点(2012-08-20 10:10:45)(良:1票)
22.  独立愚連隊
連隊仲間で酒を回し飲みしながら会話を進めるあたりなどに、岡本監督のリズム感がうかがえるが、もひとつ快調でないのは、彼の終生のテーマである「戦争」に初めて挑んだその距離感をどうすればいいのかという迷いがあったのだろうか。活劇映画としての戦争映画を作るのは簡単で、それにコミカルな味を加えるのもそれほど難しくはないだろう(『人間の条件』と同時代にやったのは立派)。しかしそれだけでは済ましたくないという思いが監督にはあって、そのモヤモヤがやがて『日本のいちばん長い日』や『肉弾』を生み出していくわけだけど、その始まりの一本として、どう手をつけていいのかという困惑のほうが感じられた。本当に「豪放」なのか、「豪放」というパロディを演じているのか、佐藤允の怪演の勢いに乗せて強引に押し切った作品という印象。戦場を描くには、こういった装いが必要なほど愚劣なところなんだ、という作者の困惑の果ての一手だったという気もする。岡本監督の常連中谷一郎がすでにいい味、これが初顔合わせなのかな。
[CS・衛星(邦画)] 6点(2012-07-10 09:53:57)
23.  東京五人男
その後の復興なった歴史を知っている者から見ると、焼け跡の風景に爽やかな解放を感じられるが、当時まだ前途真暗だっただろうから、ここに描かれる未来への希望は必死なものだったんだろう。それをコメディとして提示したとこに、庶民の底力への信頼が感じられる。中心になっているのは、不正を憎む素朴な正義感ね。ちょっと前まで異常な正義の時代が続いていて、「正義」に対する拒否反応や疑心暗鬼があってもおかしくないのに、とても健全に「正義」を信じている。というか、あの狂った正義の時代を越えて、最後にこういう素朴な正義があらゆる倫理の基礎になるべきだ、という考えに至ったんでしょうなあ。満員と行列に代表される世相描写も、同時代ゆえの手応えがある。強欲農家のシーンなどシュールな味わい。部屋の間の壁がひっくり返るようなドタバタもある。私の場合、戦後のイメージはもっぱら黒澤映画のギラギラとした世界で形作られてきたが、こういう爽やかな戦後風景もいっぱいあったんだなあと、新鮮だった。
[映画館(邦画)] 7点(2012-04-23 10:24:49)
24.  透明人間(1992) 《ネタバレ》 
透明人間には「見るだけの人間の孤独」って形而上学的なテーマもあるんだけど、そんなことにはこだわらない。本作は、透明人間というものをいかに具体的に想像できるかってのが本筋。食事をすると消化がすむまでは胃袋が見えてしまうとか、タバコを吸うと煙が肺に満ちるのが見えてしまう、なんてとこね(いささか尾籠な話で恐縮だが、子どものころ、透明人間の大便はどういう状況になったとこで可視になるのかってのに悩んだことがある。人間の内部と外部との境が曖昧だ、という事実にそこで突き当たった)。ガム噛んで膨らませるってのもあった。道を行くと人とぶつかりそうになる、なんて単純なとこにリアリティ感じた。引ったくりのバッグをサッと返すギャグなんか好きだな。一番好きだったのは酔っ払いをダミーにしてタクシーに乗るとこ。しゃべらせるのが傑作。じっと悪者の部屋の隅にうずくまってて伸びをしたときの足首のポキポキいう音で感づかれちゃうの。で悪者も誘うようにあくびをすると、つられちゃうとか。建物の部分が透明になってしまってるのも面白い。主人公の主観で見えるシーンと見えないシーンとがあるのも、映画として正しい。化粧するってアイデアもいいな。真っ白な歯。
[映画館(字幕)] 7点(2012-03-28 09:49:12)(良:1票)
25.  遠き落日 《ネタバレ》 
差別用語とされる「てんぼう」という言葉をちゃんと使ってたことは褒めましょう。文久三年(1863)に尾羽嬢だったシカが明治元年(1868)にはもう三田佳子になってるのには驚いた。中盤のちゃっかりと手術費用を捻出するとこ、餞別をもらい回るとこ、山本圭のとこに強引に乗り込むあたりなどに「人間野口」が感じられかけるとこは若干あるんだけど、やっぱり偉人伝ものの枠からは抜け出せなかった。母の手紙が映画のキモで、このころはまだ有名ではなかったのではないかな。東西南北を読み込む中国の文章の伝統が、こういう僻村にまで及んでいることに驚かされる。母との再会のとき、左手の手袋は脱いでるの。ついにオッカアに「こんな手にしたのはおめえじゃねえか」と言ってしまった後の愁嘆場はモロ「日本映画」でしたなあ。牧瀬里穂の無理なフケメイクがなくてホッとした。
[映画館(邦画)] 5点(2012-03-15 10:17:08)
26.  どっこい! 人間節-寿・自由労働者の街 《ネタバレ》 
題名だけ見ると、なんか「貧しくてもオレたちゃ自由だ」ってな威勢のいい人間群像を予想してしまうが、違って冒頭から合同葬儀、全編死の影が覆っている。身近にナマナマしく死を意識しながら生きている人々。田中豊さんの回顧談から。靴磨きや盗んだ雨合羽を売ったりした話。「柴田と少年院にいたころ…、柴田だよ、巨人の…」なんて言ってた豊さんが脳出血で行き倒れになって冒頭の葬儀になったわけ。松葉杖を見つけてきてやった久保さんは「俺が殺したようなもんだ」と自責の念を募らせているし(この人ちょっと理屈屋)、隠居役みたいな人もいるし、いろいろ個性が出ている。寿町に筋ジストロフィーの人もいるのには驚いた。いつかいい世が来るだろうが、それを俺は見られないのが残念、とちょっと芝居がかっているが、そういう思いを支えにしてるんだろう。アル中と戦っている鈴木さん(平凡な名前が多いのは本名を変えているのかもしれない)が、ぼそっと「怖い」と呟く。その孤絶の凄味。カメラは窓の外の夕暮れの町を見回してからまた彼に戻ってくる。彼の孤独が町につながらないながらも、響いていくような不思議な感覚。彼がそれでも何とかアル中を治そうと思った力はどこから湧いてきたのか。なんとなく「町に逃げ込んできた人々」という印象を持っていたが、やっぱり追い詰められて仕方なく来たのかも知れない。「不思議と景気がよくなると寿町の人間も増えるんだ」という。やくざ関係っぽい黒須さんもいい。ちょっと緊張しててインタビューに答えるときはいちいちマイクを奪ってしゃべる。小川映画ではお得意の討論シーンがこれにもある(小川は編集を担当)。絶対非暴力の朝鮮人にジョーが食ってかかって久保さんが中に入ったり。この人たちを見ていると、市民社会では隠されていたものが露出している感じ。タテマエとホンネを使い分けるのが市民社会の文化だが、ここにはそれがない。ホンネだけだって言うんじゃなく、一緒くたになってる。噛みあってる感じ。タテマエはタテマエで突き進んでいつのまにかホンネに成り代わってると言うか。最後に、強盗に襲われて年末年始をここでしのいだ人が感激してお礼に指を詰めましょうって来たエピソード。けっして景気のいい映画ではないが、人間展覧会としての豊かさに希望を見たくなる。
[映画館(邦画)] 8点(2012-02-25 10:05:06)
27.  永遠に美しく・・・ 《ネタバレ》 
デブデブに太ったG・ホーンがM・ストリープが殺されるシーンをビデオで繰り返し見ているあたりまではテンポ快調。現代に入ってからモタついてくるのはなぜか。ホーンの殺意とI・ロッセリーニの秘薬と絡み具合が不安定なままで、殺意のほうが中途半端になってしまうからか。本題はやっぱ階段を落ちたストリープがピクピクと動き始めてからでしょうね。ドラマよりSFXで見せる映画とはっきりして、観てるこっちも姿勢がはっきりする。たしかにおなかの穴なんかよく出来ていて、ソファに突き刺さったシャベル(?)の柄を穴に突き立てて座ったりする。おなかの穴越しに向こうが見える。ふたりの和解がいささか唐突、でもこの唐突に共同戦線を張ってくるみたいなところが、男にとっての女の気味悪さなんだろうな。死体化粧屋ってのがミソで、昔トニー・リチャードソンに『ラブド・ワン』てブラック・コメディの傑作があったなあ。
[映画館(字幕)] 6点(2011-12-27 10:33:55)
28.  富江 アンリミテッド 《ネタバレ》 
シリーズ八作目・末広がりの今回は、ホームドラマで始まって学園ものに移行し、再び家庭に戻って最後は社会に出てオチを付ける、という波瀾万丈。まあいつもの「富江」パターンで、それぞれは閉じた世界の中で異常を異常とも感じさせず血みどろやってるだけなんだけど、なんか久しぶりだったせいもあるのかなあ、終盤の畳み込みはけっこう嬉しかった。放課後の校舎を首なし女生徒がバタバタと駆け回る賑わい、ムカデ人間と化した富江が壁や天井を這い回るゾワゾワ感(今回は本当に富江が増殖するの、ムカデになったり弁当箱の中で)。包丁でグサグサやるのは現実感なく平気だけど、ハサミで上唇切ろうとするのはコタえた。この監督はセーラー服出すとやはり生き生きしてくる、女性の口に何かが突っ込まれるシーンも昔から好きだし。あと風呂場での解体シーンはシリーズの旧作を思い出して懐かしかった。何より驚いたのは製作者が「富江とは何ぞや」というテーマのようなものを考えていることで、主人公月子(富江の妹)のコンプレックスってのがモチーフになっている。人に嫌われないよう地味に地味に生きてきた彼女が、終盤に先輩や友だちに「おまえなんかなんとも思ってなかったよ」とののしられ、常に憧れの対象だった姉富江に憑依されて世間へ出て行く。彼女は「誰かに必要とされる特別な存在」の富江としてエンディングを迎えることになる。うーん、「作者の言いたいこと」、テーマってヤツだよ、これは。「現代人の孤独」と言うか。コンプレックスと共に生きることが出来なかった月子の物語。たとえばアカデミー作品賞を獲った、コンプレックスと共に生きることを選んだ英国王の物語と対になるよ、これは!
[DVD(邦画)] 5点(2011-12-19 10:23:07)
29.  ドラキュラ(1992)
影の使い方とか、ラブシーンを孔雀の羽根で隠してその眼がトンネルになっていくとか、首の傷跡が狼の目になっていくとか、意識的に一昔前のタッチを多用してある種の古典的雰囲気を醸そうとはしているみたいなんだけど、あんまりそういった趣向に切実さが感じられない。とりあえずサインしてるって感じで。いいのは、ルーシーが庭に導かれるところとか、コッポラお得意の惨劇と儀式が交互に現われるあたり。邪悪な結婚と聖なる結婚の対比ということか。ドラキュラ伝説ってのは、愛が宗教によって聖なるものと淫らなものに引き裂かれた結果生まれたんでしょうな。引き裂かれた両者がドラキュラを介して捻じれてまたつながっているような感じが面白い。ドラキュラの想いってのは、死者への想いだから高度な純愛であって、永遠に満たされることなく、永遠に渇いたまま生き続ける、ってところがポイントなんだろうなあ。
[映画館(字幕)] 6点(2011-11-30 10:24:43)
30.  友だちのうちはどこ? 《ネタバレ》 
いいのは母親とのやりとりのところ。アハマッド君は間違って友だちのノートを持ってきたことを発見する。返さなければ今度こそ友だちにとって大変なことになる。返しに行きたい。しかし母親は次々に用事を言いつける。ノートを口実に遊びたがっている、と母親が誤解していることを彼自身分かっている。つらい立場だ。落ち着かない。弟は宿題を済ませたから遊べるんだよ、と母親は教訓を垂れる。そのとき彼はイライラするのではなく、キョトンとした表情で静かに困惑するのである。これがいい。イライラするのは、誰かに自分の困惑を見せたいからだ。最終的にドラマをまとめてくれる物分かりのいい大人に見せたいからだ。しかしこの映画ではそういう大人は残酷なくらい排除されている。それらしく登場する老人もけっきょく少年の足かせになってしまうし、先生もただ鈍感なだけ。少年の気持ちを汲み大人の世界に翻訳してくれる救済者はついに登場しない。少年は最後まで世界の中にただ一人で立っている。そういう少年だからこそ、別の場所に一人で立っている友人のことに心を寄せられるのだ。ただ一人で立つ少年は、責任という問題に出会っている。宿題をやることが出来なくなっている友だちを助けられるのは、彼一人しかいないというところが辛いのである。おそらく今まで一度も母親の言いつけに背いたことのない「いい子」だった彼が、ここでそれよりも「責任」を、キョトンと困惑しながら選び取っていく。イスラム社会では強大であろう親や老人たちの言いつけを越えて、友だちの家を探しにポシュテの町へ走っていく。翌朝、間一髪で彼は友人を救うことが出来る(ここらへんの友人の絶望しきった描写が傑作)。彼のしたことは先生や親に褒められることでもなく、ただ友人の心配を消したことである。その充実が彼への最大の褒美だ。そういう彼の昨晩の冒険の証人には、小さな一輪の花がふさわしい。
[映画館(字幕)] 9点(2011-11-10 10:02:51)(良:2票)
31.  トライアル/審判
プラハでロケしたってのは、どうなんだろう。たしかに美しいが、話を文学史のなかに追い込んではいなかったか。もっと匿名の街の物語であるべき。K・マクラクランも違うんだよなあ。O・ウェルズがA・パーキンスを起用したのと同じ間違い。カフカは『サイコ』や『ツインピークス』の不気味とは異質のもので、もっと平均的な人物を起用すべきだったろう、もちろん「平均的人物」ってのを作り上げるのも難しいが。窓からこちらを興味津々で見ている隣人たち、あの手の味わいが後半消えてしまう。彼のために調査官が鞭打ちの刑を受けるあたりの「いやな感じ」はいいところを突いてる。疚しさを強制される地獄。
[映画館(字幕)] 6点(2011-11-06 12:24:56)
32.  トゥルー・ヌーン
こういう小さい国の映画産業って具体的にどうなってるんだろう。何年ぶりかに作られた映画だとか言ってた。映画館てのは一応あって外国の映画をもっぱら上映しているわけか。するとやはり昔の支配国ソ連→ロシアの映画を配給してるのか。などということを考えたのは、主役がロシア人で、それがいい役なんだな。純粋に作品の要請でそうなったのか、それとも作られた映画をロシアで配給してもらう狙いもあって主役をロシア人にしたのか。そんなことをモヤモヤと考えたのは実は映画の内容とも関係していて、ここんとこどんどん民族自決主義で小民族も独立し、それはもっぱら「いいこと」として見られてきた。でもそうやってどんどん小さな国に分割されてくると、地球の表面は国境だらけになり息苦しい。映画産業が一国だけで成り立たなくなると、大きな市場で売れるものへと話が媚びていく心配はないか。もうフランス革命以降の民族国家ってのが限界に来ていることをみな感じていながら、でもそれに替わるものを見つけられないでいる。そういう現状がこの山の中の小国の映画でも描かれた。民話的な語り口ながら、描かれるのは現代の問題。独立を取ると、それはさらに自分の居場所を国境で縛り込むことになるぞ、というジレンマ。でも民族を離れてグローバリゼーションでいきましょうとなると、大資本に世界が飲み込まれていく。結婚式も斜面じゃなくちゃ出来ない山に囲まれた小さな国にも、世界政治は鉄条網となって押し寄せている。そんなことを思った。冷厳な山容と朝霧がたまる村の光景に、本物ならではの魅力がある。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2011-10-19 10:06:12)
33.  飛べないアヒル
『スラップ・ショット』の少年版ということか。男の世界の味わいから教育問題の世界になる。少年時に受けた誤った教育が、健全なスポーツ精神によって矯正されていく、ってな話。弁護士は心がいびつで、マイナーのホッケー選手はマットウいう構図。進むべき道から一歩も踏み外さない段取り通りの展開に、安心してもいいし物足りなく感じてもいい。テーマが「教育」だから、フェアプレー精神が基本。悪いチームのユニフォームが黒っての、マルコムXが見たら怒るだろうなあ。頑張れば栄光があるって精神は大事かも知れないけど、そう簡単にはいかないぞ、って気を観客に起こさせないようにするのが芸の見せどころなんだけどなあ。インチキを断わった少年に謝るところがアメリカの良さ。
[映画館(字幕)] 6点(2011-08-14 09:44:18)
34.  トイズ
アメリカ映画が子どもっぽくなってきたのはこれ以前からだったが、その柔らかさや無垢さをどんどん追っていった果てに、とうとうこういうヒヨワな場所にたどり着いてしまった、という意味で興味深かった作品。子どもが半面持っている生々しいものは消されて、映画そのものがテレビゲームの中に入ってしまったような感じ。地に足が着いていない、と言っても仕方なく、その「地」が現在はなくなってしまっている、という前提で語られている映画だ。現実感を一瞬たりとも感じさせないようになっていて、童夢が覚めるのを恐れているかのような、アワアワとした光景で世間を隔離していく。ここではゲロでさえ清潔。一級の美術で「手応えのなさ」を懸命に作り上げたフィルムで、好きな映画ではないがその異様な懸命さが記憶に残り続けている。
[映画館(字幕)] 7点(2011-06-29 12:34:02)
35.  特別な一日
変にひとけがない感じがいい。『黒いオルフェ』では、カーニバルの賑わいの裏道の静けさってのが生かされてたけど、あれを思い出した。ファシストの集会にみなが出払った後のアパートの静まり。この設定がファシストおばさんとホモおじさんの出会いに必要だった。自分で女は劣っていると思い込んでいるほど素直にファシストの言葉を信じているヒロイン。公園でムッソリーニを見かけて気絶しちゃったってんだもの。あの当時のこういう素朴な一般庶民てのはなかなか映画で主役をやらせてもらったことなかったんだよな。ムッソリーニは貧困をもたらす敵だったのではなく、彼らにとって希望の象徴だった。小道具、九官鳥からルンバの足形、砂のオモリつけた電球、などなどが生きている。管理人のおばさんも重要。世間そのものといったような無垢な残酷さ。ラジオによる沿道の賑わいの中継が生きる。管理人のおばさんが大きな音で聞いているの。
[映画館(字幕)] 7点(2011-05-20 09:46:40)(良:1票)
36.  トップ・ハット
人違いもののモチーフで、ずっと引っ張り続けるシナリオがいい。途中紹介される場面で、ここまでかな、と観客に思わせといて、さらに勘違いを続けていく粘っこさが嬉しい。誤解を続けさせる会話の妙。ダンスのほうはやや地味目で、二人で踊るのでは、仕方なく踊り始めてからしだいに熱が入っていく「チーク・トゥ・チーク」が見どころか。ただ一番うっとりさせるのは、アステアのロンドン公演でのステッキもの。ロンドン紳士の正装で、けっこうワイルドに踊るのが趣向。映画の冒頭、ロンドン紳士のクラブで音をたてないように息をひそめていた場面が反転される。タップの響きを銃声に見立て、向こうに並んだ同じく正装の紳士たちを(恋がたきという見立てか)、ステッキの銃で一人二人と倒していき、残ったのは機関銃で(ステップの連続音)薙ぎ倒す。それでも残った一人は、ヨーロッパ風に弓矢で仕留める。イギリスの上流階級と、アメリカのギャングとの重ね合わせのようなシャレた(ちょっと殺伐とした)趣向に、息を飲まされた。すべての動作がイキのよさで充満している。ロジャースの上の部屋で「砂の上の音をたてないタップ」をした欲求不満が、雷雨の中のあずまやで解消されたのと同じような爽快感が、このステージにもある。
[映画館(字幕なし「原語」)] 8点(2011-05-07 09:39:39)(良:1票)
37.  逃亡者(1993) 《ネタバレ》 
逃げながら追いかける。追う者と追われる者との親近感がミソ。トミー・リー・ジョーンズはエイハブ船長をやれるな、と思った。追跡が単純である前半はなかなかの水準と見た。トンネルで挟まれるあたり。シカゴに戻ってきてからは、どうしても謎解きのほうに話が奪われて、ややもたれる。ちょっと街中をうろうろし続けていられ過ぎる。病院でつい子どもを診断してしまったりして、ジェラードが彼の有罪に疑問を感じてくってあたりは分かるけど。真犯人は、もう少し真犯人らしからぬ顔の人間はいなかったのか。
[映画館(字幕)] 6点(2011-05-06 10:25:34)
38.  東京物語
老夫婦が子どもに会うために東へ行き、子どもたちが親を送るために西へ行く、というシンプルな二つの移動の物語で、しかしその移動はほとんど描かれず、ただ西から東へ帰る紀子(原節子)の姿のみが最後に置かれる。描かれているのは人の世のむごさだが、しかしそのむごさは改めたり正したり出来る「あやまち」といった類いのものではなく、「そういうふうになってるもの」として提示されているがゆえにより沁みる。以前は、最後の京子(香川京子)の憤懣がちょっと剥き出しで、この繊細きわまる傑作の唯一のほころびかと思ったときもあったが、あれはただ本質を見つめられない「若さ」を客観的に描いていたのかもしれない。紀子によってフォローされているのだし。その紀子と京子が時計を介して照らし合わされ、移動する車中の紀子で閉じられていくことは、ここで初めて西と東が連続しようとしているようにも思われた。おそらく京子はここを通って東に行くだろう。しかし老父の葬儀までもうここを西に行く家族はいまい、という幕を引くための移動のようにも思われてくるのだ。
[CS・衛星(邦画)] 9点(2011-04-15 09:43:53)
39.  逃走迷路 《ネタバレ》 
分類すれば戦時下のプロパガンダ映画。「敵のスパイに気をつけよう」。でも同時期の日本の同じような映画、『第五列の恐怖』なんかと比べると、メッセージを映画として膨らませている。舞台はアメリカのいろいろな層を巡り、アメリカの歴史を巡っているようにも見える。開拓時代の森の小屋みたいなところもあれば、カウボーイ時代の牧場、ソーダ工業の跡地から摩天楼の時代へと、情景として、アメリカの自信が見えてくる。上流人士にもスパイはたくさんいるんだぞ、と引き締めの警告を発し、なにしろ敵の計略が成功して軍艦が横倒しになってしまうとこまで描いて、しかしラスト「自由の女神」のシンボルにプロパガンダのメッセージを絞り込む(冷戦末期の『北北西…』のラシュモアより、政治的意味の込め具合はこっちのほうが濃いだろう)。各エピソードのつながりには、ちょっと無理を感じるところもあるが、見せ場は適度に配置されているので現在でもプロパガンダを越えて楽しめる。ヒロインが主人公の手錠をハンドルに引っ掛けるとこ、この二人の疑心暗鬼がドラマの展開に補助線を引いていて、疑いゆえの行為が二人の顔を引き寄せるなんてのが憎い。そのあとの手錠切断とヒロインの車呼び止めとの切迫。パーティ会場での緩い包囲の緊張、などなど、本筋と補助線とがもっと有機的に絡み合えればいいんだけど、それぞれで勝手に展開し、しかしそれぞれの見せ場は作っている。自由の女神のクライマックスでは音楽を入れず、高空の風の音を十分に聞かせている演出を、最近の監督は学んでほしい。ヒッチコックにおける悪の組織って独特の雰囲気があるな。つまんないチンピラのような手下ってのはあんまりいなくて、けっこうみんな有能・まじめそうな感じが漂っている。敵の描写に侮りを入れて弱めてしまうと、闘争のドラマそのものが弱まってしまうことを熟知しているからだろう。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2011-03-27 09:53:20)
40.  トゥルー・ロマンス 《ネタバレ》 
感情のおもむくままに走っていくシナリオ。とてもホット。それでいて部分的にはネットリしているのがおかしい。正義と悪の対決というより、ホットな二人とクールな世間の対決。G・オールドマンが電灯を揺らしながらC・スレーターをからかうとことか、それからもちろん、C・ウォーケンとD・ホッパーの向かい合いとか(それにしても豪華なキャスティングだ。D・ホッパーをいいお父さんにするなんて憎いね)。エルビスの啓示を受けて揉め事に入り、エルビスの啓示で救われる。お得意の三すくみはあるが、でもシナリオが書かれたのは『レザボア・ドッグス』よりこっちが先だったらしい。問題はラストのファミリーシーンだ。もしかするとこれ、平穏な若夫婦の・しがないコミックブック店員夫婦の、こうありたかった妄想なのかとも思えてくる。「トゥルー・ロマンス」って、何かそんな皮肉みたいな題じゃん。この二人以外は、世間はみんな死んでしまって。ひたすら夢としての冒険、ホットでありたいいう気持ちがここまで妄想を暴走させたのだとしたら、つまりそれだけクールに浸されてしまった時代だってことなんだろう。
[映画館(字幕)] 8点(2011-03-20 09:56:17)
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