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プロフィール
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自己紹介 奥さんと長男との3人家族。ただの映画好きオヤジです。

好きな映画はジョン・フォードのすべての映画です。

どうぞよろしくお願いします。


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人生いろいろ、映画もいろいろ。みんなちがって、みんないい。


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181.  男たちの大和 YAMATO
映画の中で、臼淵大尉による有名な言葉が語られる。「…敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。俺たちはその先導になるんだ。日本の新生に先駆けて散る。まさに本望じゃないか。」  …そう、この映画の大和乗員たちは、宣伝文句にあるような「愛する人を、家族を、友を、祖国を守りたかった」から死地へと赴いたのではなく、あくまで「日本の新生」のために、未来のわれわれに<責任>を果たすために死んでいった。侵略戦争に加担した者の末路でも、戦争という「時代=政治」の犠牲者でもない、彼らは“死んでいくことで<責任>を果たした者たち”に他ならない。「日本の新生」を実現するために、未来のわれわれ(とは、もちろん、私でありあなたのことだ)への<責任>をまっとうするために、彼らは死んでいった。少なくとも脚本・監督の佐藤純彌は、大和の乗員たちをはっきりとそう描いている。だからこそこの映画は、これまでにうんざりするほど創られ続けた被害者意識たっぷりの自己弁護的「反戦」映画とも、過去の戦争を賛美・肯定する「反動」映画とも一線を画する、真に「倫理的」な作品たり得たのだと、ぼくは思っている。  もう一度言おう。これは「戦争」という情況下を人々がどう生き・死んでいったかを描いたものでも、右にしろ左にしろ何やら「思想=政治的」なメッセージを垂れ流す類のものでもない。60年前の人々が未来のわれわれに向けていかに<責任>をまっとうし、それをわれわれがどう受け止めるべきなのかを問いかける、そんな「倫理的」な次元で成立した映画だ。そして佐藤監督は、そういう「責任(レスポンシビリティ)」に対して、この映画を創ることで「応答(レスポンス)」した。そして、彼ら死んでいった者たちが果たした<責任>に、今度はわれわれが、私やあなたがどう「応答」するかを静かに問いかけるのだ。…この映画を見た者は、作品的評価とは関係なくその問いを、今を生きる者としての<責任>を、たとえ意識的であれ無意識的であれ否応なしに引き受けることになる。もちろんそれは戦争の是非ではなく、死んでいった彼らにとっての「未来」を生きるわれわれが、では彼らに対してどんな<責任>を果たし得るのか、と。  …技術的な完成度や、芸術的な価値、娯楽性の優劣などを超えた場所で、ただ「倫理的」な問いだけによって創りあげられたこの映画に、ぼくは深く敬意を表したいと思う。
[映画館(字幕)] 10点(2006-01-19 13:42:04)(良:5票)
182.  火星人地球大襲撃 《ネタバレ》 
【なにわ君】さん、ぼくはかなり以前に見たっきりですけど、この映画が大好きなんです! 地下鉄工事現場で謎の宇宙船が発見され、触れた者は奇怪な幻覚に錯乱状態になるという序盤から、何となく『ミミック』を想わせるサスペンスフルな趣にもうワクワク・ドキドキ。やがてその幻覚が火星人の「思念パワー」によるもので、宇宙船の中から巨大な昆虫型の火星人の死骸が現れ、博士が火星での「最終戦争」のカタストロフィを“幻視”するあたり、「ああ、エメリッヒの『インデペンデンス・デイ』でもこの設定を頂戴していたっけ」と、もう完全にストーリーに没入。そして火星人の思念パワーが全開となり、ロンドンの街に邪悪なエネルギーが実体化して人々を狂乱させるクライマックスは、トビー・フーパーの『スペース・バンパイア』と同じじゃん! と大興奮でありました。何より、あのゆらゆらとそびえるエネルギーの塊の、実に「悪魔」的な視覚イメージの卓抜さ!  そう、このたいして予算もかかっていそうにないSFスリラーは、前述の通り、その後に作られた数々の大作映画の「原典(オリジン)」として、未だその魅力を喪っていないとぼくは思っています。いわゆる「侵略ものSF」でありながら、エイリアンを未知の怪物とせず、“攻撃本能”と“憎悪”の感情の増幅されたもの、とするあたり、これがまぎれもないH・G・ウェルズの『宇宙戦争』の、巧妙な翻案であることを証明するものでありましょう。そしてウェルズの小説が、戦争と破壊の「黙示録的世紀」だった20世紀への予言と警鐘として読み得るように、この映画もまた、ひとつの「アポカリプス」の現前化として創られていることを、ぼくは信じて疑いません。  …クライマックスで、あの巨大なエネルギーの塊を「アース線」の原理で“消滅”させるあたりも、戦いの神「マルス(=火星)」に対する地球(=アース)の勝利を謳う《寓話》としてお見事! 怪奇ゲテモノ映画専門のハマー・フィルム製作であるこの作品、なかなかどうしてスミに置けない小さな大傑作だと思いますですよ。
8点(2005-03-23 14:16:52)(良:1票)
183.  エメラルド・カウボーイ
この作品、1970年代に単身コロンビアに渡り、幾多の苦難の末に今や“エメラルド王”と呼ばれる日本人・早田英志の半生を描いたもの。しかも早田氏が自ら資金を出し、脚本・監督もこなし、予定していた俳優が危険地帯での撮影に恐れをなして逃げ出したため、若き日を東洋人にはまるで見えない現地コロンビア人が、現在の部分を早田氏本人が演じるという、ユニークというか、デタラメ極まりない「伝記」映画ではある。  しかし、自作自演で語ってみせた究極の“俺サマ映画”とは言え、意外にも金持ちの道楽やら、自己正当化めいた嫌らしさはない。確かに全編「いかがわしさ」がプンプン匂うものの、映画そのものは一日本人の立身出世譚というより、むしろ別の感興に満ちている。  というか、まさしくこの映画は「西部劇」として創られているのだ。ここには、西部劇というジャンルにおける約束事の、すべてがある。開拓者精神も、男の友情も、酒場での乱闘も、仲間の裏切りも、さらには凶悪なインディアンたちとの攻防戦までもが(インディオのゲリラたちとの撃ち合いとして)ある。映画の後半は、ストライキで反抗する組合員たちと早田氏たち側との対立が描かれる。これも『シェーン』などでおなじみの、牧場主と小作人たちが敵対する構図そのままじゃないか。  そう、ここで早田氏が演じているのは、決して「早田英志」ではなく、西部劇の「ヒーロー」に他ならない。彼が大型拳銃に弾を込め、ベルトに差し挟む姿を見よ。ボディーガードを従えて、街や会社内を闊歩する勇姿はどうだ。西部劇で牧場主は「悪玉」として描かれることが多いが、ここでの彼は、『赤い河』のジョン・ウェインのごとく確かに権力者にして「ヒーロー」なのだ。  …まさかこれが、ホークスの名作に比肩するものだとまで言うつもりもない。が、ひとりの日本人を西部劇の「主人公」として成立させ得た本作には、それゆえの捨て難い魅力があることだけは断言したい。実際、近年これほど西部劇としての“らしさ”を感じさせてくれる映画もそうはない。そして、「西部劇」こそが劇映画の祖型的ジャンルであるなら、この1本のうさん臭いコロンビア映画には、その「神話的」な息吹きがみなぎっている。その一点だけにおいても、これは見る価値があると思う。  …いや、本当ですってば(笑)
[映画館(字幕)] 7点(2005-06-08 20:15:12)(良:1票)
184.  アイ,ロボット 《ネタバレ》 
ウ~ン…。  今どきのSFアクション・スリラーとしての“ノリ”も、ウィル・スミスのスター性も十分な、純然たるエンタ-テインメント作品だし。その上で、豊かな「寓意」を持った、かなりインテリジェントな作品だとは思うんだけど…。すんません、ぼくの中でこの映画って、どういうワケか手塚治虫の初期コミック『メトロポリス』と、“猿の惑星”シリーズの最終作『最後の猿の惑星』とダブッてしまうんです。それがこの映画の“すべて”って感じなんですよね。  つまり、1940・50年代に想像された「流線型とピカピカの21世紀像」を踏襲したビジュアルと、もはや古典的な「人類VSロボット」の階級闘争劇は、ほとんど『メトロポリス』に通じるものがある。そして、「主人(人間)と奴隷(ロボット)の関係の逆転と、戦いの末に共存をはかる」という構造において、これは『最後の猿の惑星』とほぼ同じ物語を踏襲している…。  そしてそれゆえ、この映画は決定的に「古い」のだと思う。本作における作り手のセンス(感覚)が、ほとんど過去の映画や小説、コミックなどで育まれ、培われていったことは間違いない。そこでは、実のところ「現実」などまるで意に介されていないんである。たとえどんなに現実離れしたものであろうと、映画とは、あくまでこの「現実」の延長にあるものだとぼくは思っている。だからこそぼくたちははるか宇宙の果ての物語であろうと、未だ見ぬ未来社会を舞台としたスリラーであろうと、その世界を「実感」でき、「共感」を抱ける。けれど、この『アイ、ロボット』のように、すべて過去の映画や小説やコミックなどに依拠し、その中に“自閉”したかのような作品は、たとえどんなにビジュアル面やストーリーテリングにおいて傑出したセンス(才気)を見せようとも、やっぱりどこかムナシイ。何故なら、あらゆる場面、あらゆる展開が、すでにいつか見たものであるに過ぎないから。近未来SFでありながら、映画は「古い」物語を反復しているだけに過ぎないからだ…。  ところで、この映画のパート2が出来るとしたら、あのラストシーンを見る限り間違いなく「サニーVSウィル・スミス」という設定だよね。今度はサニーが人類に叛旗を翻すに違いないっすよね! …って、そりゃあ『猿の惑星/征服』と同じじゃん。
7点(2004-10-04 19:54:49)(良:1票)
185.  キッスで殺せ! 《ネタバレ》 
冒頭、いきなり夜のハイウェイをトレンチコート姿(その下は全裸っぽい)が逃げ、と思えばアッという間に殺される。このあたり、ほとんどデヴィッド・リンチの『マルホランド・ドライブ』のノリです。その後も、1950年代のハードボイルド私立探偵ものにしてはやたらファナティックな人物や描写(夜の階段を撮る、あのカメラアングル!)が連続し、息つくヒマもないまま、原爆ドカンの驚天動地なラストへ…。す、凄い。あれって、つまりは開けると地上に災いをもたらす”パンドラの箱”だってこと? 実はこの映画、核への脅威を訴えた「社会派ドラマ」だったの? …そういったあらゆる解釈だの疑問だのをうっちゃったまま、観客を取り残して映画は唐突(にもほどがある…)に終わっていく。こんなところに、リンチのルーツがあったとは!
8点(2003-11-13 15:50:22)(良:1票)
186.  ハウルの動く城 《ネタバレ》 
主人公のソフィーは、映画の中でいつも「家事」ばかりしている。帽子に刺繍を施したり、散らかり放題の魔法使いハウルの“動く城”を掃除したり、買い物にいったり、料理をしたり、洗濯物を干したり。…そういったごく「日常的」なあれこれを、たとえ90歳の老婆にされても変えることなく続けていく。  そして宮崎駿監督は、このソフィーの「家事」に対立するものとして、「戦争」を持ってくるのだ。日常生活をやがておびやかし、破壊してしまうものとしての「戦争」。その時「魔法」とは、戦争の“道具(!)”に他ならない。…ハウルたち魔法使いが、国の軍事面をつかさどる者たちとして描かれていることを、ぼくたちは重く受け止めねばならない。まったく、『魔女の宅急便』の愛らしい魔女との、何という違いだろう!  だが映画は、掃除し料理を作り続けるソフィーの「勝利」によって、幕を閉じる。彼女の「家事」によって、ハウルが、荒野の魔女が、火の悪魔カルシファー(見かけは可愛いものの、いうまでもなく「火」は使いようで脅威に成り得る…)が、少年の魔法使いが、案山子男(かかしではなく、出来れば“あんざんし”と読みたい・笑)が、ひとつの“家族”となってまとまり、「魔法」を、戦争ではなく日常生活を守る・取り戻すための「道具」とし、遂には「戦争」そのものに打ち克ってしまうんである。  …そう、どんなに強大な力も、「家事」に代表される人々の生の営みの前には敗北する。歴史上に現れたいかなる王国や帝国もいつかは滅び、けれど人々の「生活」はどんな時代にあっても連綿と続いてきたのだ。それを言うために、映画は、ソフィーたちの生活の細部(ディテール)こそを丹念に描いていく。そこにはもはや、戦いの愚かさを訴えながら逆に「戦い」を魅力的(!)に描いてしまう(たとえば『ナウシカ』…)宮崎作品の抱え続けてきたアンビヴァレンツ(二律背反)はない。平凡な日常の繰り返しのなかにある生きることの喜びや、愛することの素晴らしさを、優しく、少しだけ照れ(?)ながら肯定するばかりだ。  前作『千と千尋の神隠し』に続いて、ぼくはこの作品もまた、(多くの方々が指摘される「欠点」にうなずきつつも)その「世界観」ゆえに心から共感し、愛したいと思う。
9点(2004-11-30 15:19:35)(良:2票)
187.  アビエイター 《ネタバレ》 
確かに「失敗作」と呼ばれても仕方のなかった(けれど、ぼくは大好きです)スコセッシ監督の前作『ギャング・オブ・ニューヨーク』に比べる時、いかにも楽しんで撮っている高揚感が伝わってくるぶん、楽しく見ることができた。言うなればこの映画、往年のジョセフ・L・マンキウィッツ監督の『イブの総て』や『裸足の伯爵夫人』を想わせる人間ドラマと娯楽性のバランスにおいて、最近のアメリカ映画じゃ最も「上質」な部類の大作だとは思う。けれど…  冒頭に置かれた、幼いハワード・ヒューズとその母親の奇妙なエピソード。それは、後年のヒューズが悩まされた激烈な強迫神経症の「原因」を暗示(というより、むしろ“明示”)するものだ。と同時に、彼の映画と飛行機と女性遍歴をめぐる冒険への度を越したのめり込みを、すべて母親である彼女の影響下によるものだと「分析」するものとしてあった。そのシーンがラストにもう一度登場する時、この映画が、「映像と航空機とセックスの世紀」である20世紀の象徴的人物を精神分析し、その<臨床例>をめざしたものであることをぼくたちは了解するのだ。言い換えるならこれは、ヒューズという人物の「伝記」というより以上に、彼を通じて「20世紀」という時代を“診断(!)”することをめざされたものに他ならない。  ただ、ハワード・ヒューズを単なる“マザコンの卑小な神経症患者”に過ぎない…というのが言い過ぎなら、彼をあまりにも「現代」の戯画(カリカチュア)として描くことは、一方で作品そのものを“矮小化”することにつながらないだろうか? つまり「心理」や「内面」を分析し説明しすぎてしまうことは、映画を、ひいては芸術というものをただの「人間主義的なスケール」に陥れることになりかねない…。  思えば、映画の冒頭に母親を持ってくる点をはじめ、この映画は『市民ケーン』をほうふつさせるところがある。けれど、あそこでウェルズは、主人公の新聞王と母親の関係を決して分析したりしなかった。そして映画の最後に、あの名高い「バラのつぼみ」として明かしてみせたのだった。…そういうハッタリこそが、この映画には、というかスコセッシ監督には決定的に欠けている。  同じハワード・ヒューズを描くものなら、たぶん『ロケッティア』というほとんど忘れ去られたSF冒険映画の方が、はるかに「神話的」かつ「映画的」だとぼくは思う。…
[映画館(字幕)] 7点(2005-05-23 20:49:18)(良:1票)
188.  リーグ・オブ・レジェンド/時空を超えた戦い
試写会でひと足お先に拝見。一見すると『Xメン』の亜流めいた”超人大集合”ものなれど、19世紀を代表する面々が、「大量破壊と殺戮」の20世紀を象徴する悪と対決する図式にまず感心。なかなかにインテリジェントじゃないですか。それぞれのキャラも、きちんと読者を納得させてくれるデティールが配され、満足満足(特にネモ船長はナミダものです!)。これで監督に、もうちっと19世紀的エレガンスに長けていたなら、もっと良かったんだけどね。まあ、文句なしに楽しめますから文句なし!(…って、同語反復でした)
7点(2003-09-16 15:22:07)(良:1票)
189.  マチネー/土曜の午後はキッスで始まる
ジョー・ダンテらしいB級映画への偏愛とノスタルジア趣味が、もうこれ以上ないくらい美しく結実した奇蹟のような傑作。相変わらず、ガキッぽい体裁でありながら、実は『13デイズ』なんぞより、いっそう切実に「キューバ危機」を頂点とした冷戦時代のアメリカ市民のメンタリティを描ききっていて、鋭い社会派映画にもなっているし。それに、あの、ヘンテコな巨大アリ映画をわざわざ作っちまう邪気も、いつもなら悪ノリに陥りがちなのに、気持ち良く笑って楽しめる。はじめてダンテを「好き」になりました、ワタシ。
9点(2003-06-05 18:44:34)(良:1票)
190.  デイ・アフター・トゥモロー
エメリッヒの映画の本質は、その「生真面目さ」にあると思う。いや、「優等生(おりこうさん)」だというんじゃなく、どこか“バカ”がつくほど「一本気(まっすぐ)」なところがあるのだ。  たとえばH・G・ウェルズの古典SF『宇宙戦争』を現代にリメイクしたなら(『ID4』)、やはり「タコ型(イカ型?)」風のエイリアンを登場させてしまう。あるいは、ファンのひんしゅくを買おうとも、あくまでゴジラの造型に生物的なリアリティを優先させる。さらに『パトリオット』みたく、善玉・悪玉をマンガチックなまでにはっきりと区別するのも、むしろ彼の「真面目さ」ゆえだろう。 その上で語られる「世界観」も、これまたボーイスカウト的(!)な単純さ・一本気ぶり。そこではアメリカ大統領が自ら戦闘機に乗って空中戦を演じ、(スパイク・リ-監督には「黒人奴隷の歴史を美化した」と批判されたが)黒人だけのユートピアめいたコミューンが、奴隷制のアメリカに存在しているのだ。いずれもエメリッヒにとって、「かくあらねばならぬ」という大上段の啓蒙的説教くささとはちがった、「かくあってほしい」という“まっすぐ”な理想として。 今回の映画においても、彼のその「生真面目さ」はいつにもまして発揮されている。ここでエメリッヒは、何よりも“寒さ”をいかに面白い映画に仕立て上げられるか、という一点においてひたすら「真面目」に取り組む。そして人類の危機に直面したとき、国家や人々は「どうあるべきか」ではなく、「こうであってほしい」と謳うのだ。…大国はエゴを捨て、人は最期まで愛と気高さを失ってほしくないという。  それを、あまりに単純すぎると失笑するのはカンタンだろう。というか、今どきそんなナイーブな「生真面目さ」など、ほとんど“バカ”扱いされるにちがいない(事実、エメリッヒ作品を「バカ映画」呼ばわりする風潮が、確かにある)。 けれど、“おりこうさん”ばかりがはびこる中、こうしたひたすら“まっすぐ”な人なり映画なりが存在していることは、少なくともぼくにとっておおいなる「救い」に他ならない。何だかんだ言われても、エメリッヒ作品にかくも観客が集まること自体、きっと多くのひとびともその「すがすがしさ」に惹かれてのことなんだ…と、ぼくは勝手に思うことにしている。  ローランド・エメリッヒ(の映画)は、理屈じゃなく、ただただ愛おしい。
8点(2004-06-19 17:47:13)(良:5票)
191.  アメリカン・スナイパー 《ネタバレ》 
この映画の謳い文句によると、主人公クリス・カイルは「アメリカ軍史上最多160人以上を射殺した伝説のスナイパー」とある。が、「狙撃兵(スナイパー)」ではないものの、ひとりの兵士として敵兵を最も多く射殺した者といえば間違いなくオーディ・マーフィーだろう。そしてかつてドン・シーゲル監督は、この第二次世界大戦の英雄で後に西部劇スターとなったマーフィーを、『ダーティハリー』の連続殺人鬼である「狙撃犯(スナイパー)」“サソリ”役に起用しようとしたらしい。「なぜなら、彼は本物の大量殺人者だから」と。  この『アメリカン・スナイパー』におけるクリス・カイルは、中東で紛争が起こるたびに志願して戦場へと出かける。それは義務や使命感という以上に、“仲間を助けるために敵を殺す”という、単純にして彼にとっては絶対的な「倫理観」ゆえだ。しかし、ミサイル砲を手にした少年に照準越しに「それを捨てろクソッタレ!」と毒づく時、彼は自分が少年を「殺したがっている」ことに気づいたのだ。「殺すこと」そのものが、自分のなかで目的化(!)したことに気づき、だから愕然としたのだ。だからその後、家族のもとに帰還したクリスがどこか“不穏”なあやうさを漂わせ、これが実話であることを忘れてぼくたち観客は、彼による決定的な「カタストロフィ(悲劇)」の予感(予兆?)におののきながら固唾をのんで見守ることになるのである。  もちろん、実際は帰還後のクリスが「殺人鬼」になることはない。むしろ彼は、同じ帰還兵の手によって不慮の死をとげる。だが、この映画を見てきた僕たちは、彼を殺すその帰還兵とはもはやクリス自身のアルターエゴ(別人格)というか“もうひとりの自分”に他ならないことを確信する。そしてその時、これがドン・シーゲル監督が『ダーティハリー』でひそかにもくろんでいた〈主題〉を、そこで主演俳優だったイーストウッドが今度は監督として継承し完成させたものであることを、ある感動とともに深く納得するのである。ーー狙撃犯の“サソリ”と、狙撃兵のクリス。つまり彼らは、ともに「アメリカン・スナイパー」に他ならなかった・・・。  こうしてぼくたちは、底知れない“闇(=病み)”を抱えたイーストウッド的主人公像を前に、またも震撼させられることになるのだ。
[映画館(字幕)] 10点(2016-03-29 13:38:19)(良:2票)
192.  ターミネーター4 《ネタバレ》 
まさにイーストウッドの硫黄島2部作を思わせる、冒頭のくすんで色褪せた映像による戦闘場面にはじまって、確かにこの映画は、これまでに見てきた様々な有名作・ヒット作・マニアックなB級作(マイケル・アイアンサイド! そして『スクリーマーズ』!)などのあのシーンこのシーンを彷彿させる“既視感”に満ち満ちている。全編これ引用=再現の連続、オリジナルに対する模造品[パスティーシュ]そのものだ。  それをオリジナリティの欠如だと否定するのも、ただのパクリじゃんと嘲笑するのも簡単だろう。が一方で、そういったシーンのすべてにおいて、無節操であることに開き直るあつかましさや、パロディやら引用と言い募るようないやらしさを感じさせないのも、また確かなのではあるまいか。ここにあるのは、マックGが愛してやまない映画たちへの単純にして純粋なオマージュであり、それらを自ら再現することへの無邪気なヨロコビそのものだ。そして、そんな〈愛〉の対象の最たるものが当の『ターミネーター』シリーズだったことは、たぶん間違いない。  そう、これは、映画が好きで、何よりキャメロンが創りあげたこのシリーズが大好きな男の手になる作品だ。だからこそ1作目と同じ容貌のシュワルツェネッガーが登場した時、単なる楽屋落ちやファンへの目くばせという次元を超えた「感動」があったのだと思う。マックGは、何としても『1』のシュワを自作で登場させたかった。ただそれだけの欲望と歓喜が、映画を見るぼくたちのハートに“共鳴作用”を呼んだがゆえの感動だったのだと。  それを、ただ「頭が悪い」と一笑に付すのは、先にも言ったように正しい。が、C・ノーラン監督のバットマン・シリーズみたくシニカルにお利口ぶった映画じゃなく、あるいは、映画を新奇な「見せ物[スペクタクル]ショー」程度のものとナメているとしか思えないマイケル・ベイ監督の撮るようなシロモノでもない、いいトシをしたオトナが「俺が見たいターミネーターを、俺自身が撮ったんだぜぃ!」と嬉々としているかのような本作にこそ、ぼくは文句なしに心ひかれる。しかも、数限りない制約だの軋轢の連続だったろう製作過程にあって、そういったノーテンキさをギリギリ貫けたあたり、この監督の“したたかさ”が窺えるじゃないか。  結論。「頭の悪さ」も、時には“才能”たり得るのです。
[映画館(字幕)] 8点(2009-08-19 12:52:26)(良:3票)
193.  Mr.インクレディブル 《ネタバレ》 
世論の圧力(!)で引退を余儀なくされた元スーパーヒーローが、夜な夜なかつての仲間と人命救助なんかをコソコソとやっている…。このくだりに大笑いしながら、確信しましたです。うん、間違いない、これは単なるアニメを超えて、現代アメリカ映画におけるエポックメーキングたり得る大傑作だ! と。  正義のヒーローが、その圧倒的なパワーゆえに人々から敬遠され、“リストラ”される。誰もが「平等」であるべき社会にとって、彼らは許されざる者たちだっ! …これまで、ヒーロー礼賛を繰り返して飽くことを知らなかったアメリカ映画にあって、こういうカタチでその存在を“否定”する作品が(それも「子ども向け」アニメで!)現れるなんて。しかも、スーパーパワーという「個性」の発揮を抑圧された弟の鬱屈や、その「個性」ゆえに“自分は他の人と違う”と引っ込み思案な姉、そして、そんな夫や子どもたちに頭を悩ませる妻…と、ここには、思春期の問題やら、個性の画一化やら、家庭の事情といった、様々な〈主題〉が見事に織り込まれ、それぞれの日常がきっちりと画き込まれている。繰り返すけれど、それもあくまで「(一応は)子ども向け」アニメーションとして、だ。  彼らを危機に落とし入れる、主人公の崇拝者だった元「オタク」少年の屈折したキャラクターを含め、本作の人物造型は、昨今のどのジャンルの作品以上に錬り込まれ、アニメ的誇張を施されているとはいえ「リアル」な説得力に満ちている。その上で、アクション/ファンタジー/アドヴェンチャーの面白さを損なうことなく、万人向けのエンターテインメントとして成立させた、その何という力わざだろう。  「家族愛」と言うより、これは正しく「個性的であること」、それを発揮できることの大切さを、きわめてソフィスティケートに展開してみせた映画に他ならない。…どなたかもおっしゃっておられたように、ぼくも、ブラッド・バード監督はこの作品によって完全に「宮崎駿を越えた」と思います。脱帽!!
10点(2005-01-21 12:58:21)(良:6票)
194.  ダーク・シャドウ(2012) 《ネタバレ》 
大江健三郎は、死を目前にした人間には独特の破壊的な想像力がある、というようなことを書いていた。それを、こう言い換えてみようか。「イジメられっ子にも、やはり独特の破壊的な想像力がある」のだと。・・・ティム・バートンの映画を見るたび、ぼくはそう思わずにはいられない。  バートン作品の世界は、肉体的・精神的な「フリークス」の饗宴だ。彼らは常に社会の秩序やら道徳(モラル)やらを嘲笑し、破壊しようとする。そしてバートンは、そういった「フリークス」の狂騒的な大暴れこそを嬉々として想像=創造することにかけて、文字通り独創的だったのだ。彼は、明らかに彼ら怪物やら怪人たちへと自分を一体化しつつ、社会への徹底した敵意というか〈悪意〉を爆発させる。そう、バートンにとって、彼ら“異形の者たち”こそ社会から迫害され排斥され追いやられる「弱者」であり、“イジメられっ子”に他ならない。そしてバートンは、そんな彼らのそれこそ必死の反撃を、バーレスクな「“負”の祝祭空間」としてヴィジュアル化してみせる。しかも、それを見事に上質な「エンターテインメント」に仕立て上げるところに、彼の本領があるのだった。  それがいつしか(というか、『マーズ・アタック!』以降の)その作品からは、ウエルメイドな画作りだけが前面化して、何より〈悪意〉が蒸発されていく。それとともに、彼の「フリークス」もすっかり“毒気”を失ってしまったかのようだ。だが、この最新作でバートンは、いかにも「ソープオペラ(TVの昼メロ)」の原作らしい醜悪な欲望むき出しの群像劇を得て、彼らを徹底的に茶化すことで社会そのものへの〈悪意〉を取り戻したかのようなのだ。相手に詫び(笑)を入れながら血を吸いまくるJ・デップの吸血鬼や、自己中心的すぎる(そして、演じるエヴァ・グリーンが素晴らしすぎる!)魔女を含めて、観客は本作の誰ひとりにも共感や感情移入できまい。だが、この自己の欲望にひたすら忠実な面々こそ、バートンの〈悪意〉による社会の、私やアナタの「鏡像」に他ならないのだ。しかしその、何と不愉快すれすれの「面白さ」であることか!   なるほど、ここには「フリークス」ゆえの悲哀を湛えた、あのバートンらしいペーソスはないかもしれない。が、久々に“ふっきれた”バートン作品は、やっぱりタダ者じゃないことも確かなのだ。
[映画館(字幕)] 9点(2012-06-05 19:20:15)(良:1票)
195.  ダーティハリー
あらためて見直して(もう何度めだろう!)つくづく素晴らしい映画だと再確認、そして再感動! ハリーが最初にマグナムをブッ放す銀行強盗一味とのシーンで、ホットドックをもぐもぐしながらひとりずつ仕留めていき、最後に生き残った犯人に対して、ニヤニヤしながら「俺の銃にまだ弾が残っているか、運だめししてみないか?」と凄むあたりにウットリ…。これ以上カッコいいヒーロー(というか、アンチヒーロー)はいまだもって空前絶後ですよねえ! 自分をしか決して信じない男でありながら、そんな自分自身に対しても醒めた眼で見られる…これぞ男の中の男っす。クリント万歳、シーゲル御大万歳!!
10点(2003-09-16 11:20:30)(良:2票)
196.  地獄のデビル・トラック
「恐怖」よりも、あきらかに「笑い」を意識しているところが、いい感じ。まあ、スティーブン・キングがおのれの趣味に走って50年代B級SFスリラーの再現を目論んだ代物だけに、同好のマニア以外にゃ今イチ楽しめんでしょうなあ。小生、大好き。
7点(2003-10-06 15:38:03)(良:1票)
197.  愛妻記
う~む、書きたかったことはほぼ全て青観さんに書き尽くされてしまったので、それ以上付け加えることもないんだけど・・・まあ、小生もちょこっとコメントさせていただきます。  それにしても、この映画の司葉子は本当に素晴らしい。女学生時代の友人をたよって郷里の金沢から東京に出てきたという彼女は、まさに天真爛漫でいながら、それがたまらなくコケットリー(誘惑的)だ。しかも、そのことに彼女自身がまったく無自覚であること。その“無垢[ウブ]”なところが実に実に良いのであります。たぶんそれは、この昭和初期にあってもじゅうぶんに魅力的だったんだろう。だからこそフランキー堺の主人公が魅かれ、一緒になろうと決意したことも、素直に納得できる。そして、こんな貧乏作家のところに喜んで嫁いでくれる彼女のような奥さんと出会えた主人公に、大いに「嫉妬(笑)」してしまうんである!  そんなふたりが、はじめて“結ばれた”シークエンスも忘れがたい。とはいえ、もちろんベッドシーン(というか、この時代じゃ“床入り”か)があるわけじゃない。司葉子がフランキー堺の下宿にやって来て、彼の部屋で朝を迎える。その明け方の場面。おたがいきちんと着物姿でありながら、それまでになかった彼女の恥じらいを含んだ様子ひとつで、ふたりがその晩に結ばれたことを、ぼくたち観客はハッキリと知ることになる。案の定、そこでフランキー堺は(貧乏作家のくせに!)「所帯を持とう」と切り出すのだ。・・・このあたりの“奥ゆかしさ”こそ、本作の美質であり、久松静児という監督の持ち味なんだろう。  ともあれ、まだ戦争の影がさしていない昭和初期の生活風景をていねいに素描しつつ、これほど魅力的なヒロイン像を造型し得ただけでも、ぼくにとってこの映画は忘れられない1本になったです。記録よりも、記憶に残り続ける映画。・・・そう、ひとりの映画ファンにとって、それこそが真の「名画」であり、宝物なのだから。   《追記》ユーカラさんのおっしゃる「軍国化」のくだりは、え、そうだったの? と思いもよりませんでした。さすがスルドイ。ただ木下恵介ならともかく、この映画の場合、ああいう兵隊たちや警察の横柄さも含めて当時の日常というかあたりまえの「空気感」であるという、それ以上の含意はないのでは・・・とも思うのですが、どうでしょう? でも、この映画って愛されてるんですねぇ。シミジミ
[CS・衛星(邦画)] 8点(2008-08-21 13:48:08)(良:1票)
198.  ブロンコ・ビリー
小生にとって、イーストウッド作品のワン・オブ・ザ・ベスト。何度見ても、最後のあの星条旗のシーンに涙が…。この映画と『許されざる者』が、イーストウッドの西部劇への、ひいてはアメリカ合衆国への”挽歌”だったんでしょうね。彼が単なる愛国ナショナリストじゃないってことは、サム・ボトムズ扮する脱走兵の扱いを見ても明らか。ジョン・ウエインは絶対的に服従すべき「偉大な」親父=体制そのものだったけど、イーストウッドはいつでも自身の”弱さ”を隠さない一匹狼。そんな男が、弱者ばかりの一座=疑似家族を作っていく本作(と『アウトロー』)には、彼の理想とする「アメリカ」がどんなものかが、見えてくるようです。
10点(2003-05-20 12:37:26)(良:2票)
199.  ピンク・フラミンゴ
この映画くらい好き・嫌いがハッキリするのも珍しいと思っていたんだけど、意外と高評価なのでビックリするやらうれしいやら。確かにパンクな”変態チック”作品ではあるものの、世の良識とやらに唾して、マイナーな「世間からつまはじきにされるような種類の人々」をこそ肯定するその姿勢は、ジョン・ウォーターズならではの「心意気」を感じさせてくれる。何か見終わってハッピーな気分になれる…なんて言うと、やっぱりマズイかな?
10点(2003-08-04 11:12:51)(良:1票)
200.  ゲド戦記 《ネタバレ》 
映画がはじまってまもなく、信望厚い「偉大な王」が、息子である王子に刺される。王子は魔法で鍛えられたという剣を奪い、そのまま逃走してしまう。その後、王が死んだのかどうかは分からない。けれど、父王を刺した王子の年齢が、「17歳」であることを観客は知らされる・・・。  この、「父親殺し」と「17歳」という設定にこそ、監督・脚本の宮崎吾朗はおのれの“すべて”を賭けたのだな、と思う。誰からも尊敬される父親を持つ17歳の少年が、その父親を殺す。そして彼は、彼自身の心の闇から現れる「もうひとりの自分」の“影”におびえ、逃げ続けるという展開がたとえ原作にあったとしても(ちなみに、ぼくは未読です)、それは、この映画の作り手にとってはるかに切実な意味を持っているに違いない。もちろんそこに、宮崎駿という「偉大な父」を、その息子である吾朗監督が「殺す」というエディプス的な〈家族の物語〉を見出すことは簡単だろう。彼ら父子がいったいどういう「関係」だの「葛藤」を抱えてきたのか、それがこの作品にどういう“影”を落としているのかを推察するのも、興味深いのかもしれない。  が、この映画が本当にめざそうとしたのは、なぜ「17歳」の少年が「父親」を殺したか、なぜ「17歳」の少年は自分の“影”におびえ逃げ続けるのか、なぜ「17歳」の少年は命の価値を省みないのか・・・を、自らに問い、懸命に答えようとすることだったんじゃないだろうか。少なくとも吾朗監督は、その“自問自答”を、それだけをただ繰り返す。物語よりも、展開の妙よりも、「面白さ」よりも、その問いかけこそがこの映画の「すべて」なのだ、と言わんばかりに。  そこに、とりあえずの「答え」は可能でも、本質的な「答え」は不可能だろう。それは作り手たちにも自覚されていたはずだ。だから、“とりあえず”のかたちでしか終わり得なかった本作は、明らかに破綻しているし、「失敗」している。しかし、その“問い”の真摯さは、間違いなく本作の主人公の、そしてたぶん「宮崎吾朗」という作り手の抱える“心の闇”を共有する「17歳」たち(もちろんそれは、実際に17歳であるかどうかということでなく)の、心の最も深い場所に届くものだ・・・とぼくは信じる。その意味でこそ、ぼくはこの映画を断固支持したく思うのだ。  ・・・そう、「面白い」以上に大事なことが、映画にも、人生にも、きっとある。
[試写会(邦画)] 10点(2006-07-20 14:28:37)(良:13票)

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